玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*江戸時代

2019年01月14日 | 捨て猫の独り言

 散歩の途中でクロガネモチの並木を見つけた。場所は隣町の東大和南公園である。暮れに庭のクロガネモチの剪定をした。庭の木の姿とまるで異なり、鈴なりの赤い実が輝いている。これから庭木の剪定を続けて理想の姿に近づけることができるのか不安である。散歩のついでにネズミモチの並木のある、わが町の小川緑地公園に立ち寄ってみた。黒い実が鈴なりであったが、それに気付く人は少ないようだ。

 

 「江戸時代まで、改元は必ずしも天皇の代替わりで行われるものではなく、天変地異や不吉な年回りを避ける目的でなされた。それゆえ頻繁に改元があった。つまりは言葉を用いた呪術の一種だったのである。近代において改元が天皇とぴったり一体化したということは、天皇制の呪術的な意味が浮上したということである。政治制度としては戦後に大きく変わったのだが、今年は意味も変わりそうだ。

 改元が3年も留保されるとなると、改元の持つ呪術的な意味はもはや無い。年号は今まで以上に形式的でお役所的なものとなり、コストがかかるわりに面倒で意味が見いだせないものとなる」ここまで田中優子の「江戸から見ると」から引いた。「古川柳おちぼひろい」や「伊能忠敬」を読み関心が江戸に向かっている。大まかだが江戸の前期、中期、後期をそれぞれ1600、1700、1800年代とみなす。中期には宝永4富士山、安永8桜島、天明3浅間山の大噴火が発生。江戸大火は全期で起きている。

 前期の1689(元禄2)に松尾芭蕉が奥の細道へ出立した。そのあとに江戸中期に流行したのは「前句付け」という文学的遊戯だった。たとえば選者が「ひくいことかなひくいことかな」の題を出すと、一般人が「よしなあの低いは少し出来かかり」と応募するという形をとり、入選句をすりものにして発表した。その前句付けの秀句を編集したのが柄井川柳である。後期では伊能忠敬没後3年目の1821(文政4)に伊能地図が幕府に献上されている。 

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