梅原猛の「親鸞四つの謎を解く」を読んだ。それ以前に、親鸞の生涯が描かれたアニメ全六巻を見ていたので、そのアニメと比較しながら読むことになった。梅原猛を読んで私の中の親鸞像が厚みを増したように感じる。梅原猛は2011年の西山深草著「親鸞は源頼朝の甥―親鸞先妻・玉日実在説」に賛同する。親鸞の母である貴光女は源義朝の娘であり、頼朝や義経と異母兄妹という。梅原猛はこの説を主張する著者をシャーロックホームズになぞらえる。
これによると親鸞の祖父である義朝は平安末期の「保元の乱」において敵味方に分かれて戦った父の為義を後白河天皇の命で処刑している。すなわち悪人正機説を師の法然から受け継いだとしても親鸞の罪悪感の深さは、親鸞の血の中にも父を殺した祖父義朝の血が流れていたからだと梅原猛は謎解きする。親鸞は4歳で父を、8歳で母を亡くし9歳で出家したとされるが、父は生きていて平家による源氏の残党狩りが荒れ狂うのを恐れてわが子の一日も早い出家を望んだのではないかとする。
29歳の親鸞は慈円(天台宗)に決別し比叡山を下り他力易行の法然の弟子となる。梅原猛は法然の「選択本願念仏集」は極めて論理的だとして法然を日本のデカルトと呼ぶ。親鸞は九条兼実と法然の勧めに従い玉日と結婚し、公然と表明した。親鸞が流罪にあった際、玉日は兼実の娘であったことから遠い越後に行くことができず、その代わりに侍女の恵信尼を越後に遣わしたのであろう。流罪中に玉日が死に恵信尼が親鸞の後妻となった。(真教寺の玉日、兼実、親鸞の三体像)
梅原猛は真宗十派の筆頭である本願寺派の流を汲む学者たちが文献研究ばかりであると批判し、フィールド調査の重要性を訴える。実際に京都はもちろん、三重の真宗高田派本山の専修寺、親鸞関東布教ゆかりの茨城や栃木の寺々を訪れている。当初、京都の月輪寺にあったという親鸞、玉日、九条兼実の三体像が安置されている東京杉並区の本願寺派の真教寺を訪れた梅原猛は興奮気味だったと取材同行者は語る。真教寺は築地本願寺和田堀廟所の一角にある。