ウィキペディアの「時間」の項目は「人類にとって、もともとは太陽や月の動きが時間そのものであった」で始まっている。しかしその後の記述にはそれほど心が動くものがなかった。数少ない自分の読書の中からこれまでに書き止めていたものを記してみる。
「昨日の私」と「今日の私」は「別ものだけど同一である」というつじつま合わせができるものだけが「時間」という概念を持つことができる←レヴィナス(内田樹の師匠)
視覚というのは時間を表現するものを捉えられません。写真を考えたらそこに時間はない。逆に聴覚は時間を捉えられても空間は捉えられない。視覚と聴覚のズレを埋めるために時空という概念を発生させざるを得ないのです←養老孟子
仏教では時間を重要視しないようです。「すべては生成消滅し続ける」という共通理念がありますので基本的には常に現在のこの一瞬だけが唯一存在する〈時〉です←釈徹宗(内田樹の友人)
唯識仏教では時間とは物でも心でもないもので意識の流れの上にある法(ことがら)として仮に立てられたものと定義しています。つまり実体のない仮法という位置づけですが、それだけにすぐれて私たちの感じ方の問題なのだと思います←多川俊映(興福寺住職)
未来には希望をもつことができる。しかし不安も感じざるを得ない。そういう未来が突如として現在に変わり、さらに記憶に変わって過去になる。その記憶もだんだん遠ざかっていく。時あるがゆえに生きるという言葉の内容を説明することができる。時間というものは、強いてそれが何であるかといえば情緒の一種だというのが一番近いと思います←岡潔