暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うかを問う「暇と退屈の倫理学」はパスカル、スピノザ、ニーチェ、ハイデッガーなどの先人の教えを読み解きながら実に多くの分野に間口を広げてゆく。 暇と退屈の原理論に始まり、系譜学、経済史、疎外論、哲学、人間学、最終章が倫理学と展開する。
通読して私の興味をひいたのは疎外論の章に登場するルソー(1712~1778)とポードリヤール(1929∼2007)である。ルソーについては文庫本の「エミール」を最近読み始めたものの、序盤で退屈して読むのを放棄したばかりだった。国分氏はルソーの自然状態論を疎外概念の起源だという。マルクスは疎外された労働を批判し労働日の短縮にもとずいた「自由の王国」を考えた。
ルソーは文明人の惨めさを嘆き、自然人という純粋に理論的な像を作り出すことで、人間の本性に接近しようとした。そしてルソーは疎外されているから、本来の姿に戻らねばならないという過去への回帰願望ではなく、人間の本来的な姿を想定することなく人間の疎外状況を描いた。いわば「本来性なき疎外」という概念だと評価する。
国分氏は「新版に寄せて」という一文の中で、再度ルソーに言及している。たしかにルソーの自然人は人間本性のある側面を描いている。だがその姿は我々の知っている具体的人間とは異なっている。人間は誰かと一緒にいたいと願っているが、バラバラに生きたいとも願っている。この矛盾を解消するためには人間の本性(ヒューマン・ネイチャー)の概念では答えられない。人間の運命(ヒューマン・フェイト)から考えねばならない。人間はその本性ではなく、運命に基づいて他者を求める。