忘れ人の独り言

明治生まれの両親がさりげなく生きていた姿が今,私に語りかけてくる。

夕ご飯の準備

2010-05-30 | 写真

知人が撮ったかえるの写真

知人の奥さんが、遠くに住むお父さんが病気になられ、看病をしに帰っておられます。

知人曰く「忙しい、忙しい 早く家に戻って夕ご飯の準備をしなくては」と。

奥さんが留守になり食べることから大変だと感じられた様子?

ちょっと奥さんの有り難さがわかったかな?

「でもね、いろいろ作ってみると、何か昔のおふくろの味になって・・・懐かしいよ」ともおっしゃった。

えらいね!頑張って作るなんて 近所の一人暮らしの方はやっぱり、出来合いもののお惣菜が多いみたい。


人と世界

2010-05-30 | 生き方を学ぶ

ご住職さんが毎月届けてくださる同朋新聞に心に響く文が載っていました。許可を得て一部抜粋し書きます。

人間とは、文字通り人と人との間を生きる間柄存在です。「人と世界」に関わる存在です。だから「人と世界」が悲しみと苦しみに溢れている時に、ひとり幸福であるとはいえません。

もし、私の人生は平穏無事で幸福だと考えるならば、それはただ「人と世界」の問題に対して「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿状態でいきてきたことの結果です。

イラクやアフガニスタンで自爆テロが起きていても、戦争のために沖縄に基地をつくり、人々の生活と命が奪われていても、格差社会の中で夢と希望を失った若者が自暴自棄になっていても、それらの問題は全て他人事だと考えるならば、私は平穏無事です。

しかし、私が人間として、他者とつながり、世界とつながっているかぎり、すべては他人事ではなく、私のことです。そういう問題だらけの人生を「わが人生」として、背負うところにしか、人間の歩みは始まらないのではないでしょうか。

その意味では、私の都合にあわない出来事に遭遇して、あたふたと驚き、たじろぐところから、あらためてわたしの閉鎖的かつ独断的な人生が問い直されるのでしょう(中略)

親鸞聖人の信心とは人間の都合を仏に頼む心ではありません。阿弥陀如来の本願が私の上に現れた心です。だから、それは世界を閉ざす心ではなく世界を開く心です。

親鸞聖人はそのような信心の心の表現を「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願って生きることだといわれています。信心をいただくことと、世界の平和を生きることとは無関係ではないのです。(後略)

同朋新聞5月号 親鸞聖人の手紙から 同朋大学教授 尾畑文正氏の掲載文より抜粋