忘れ人の独り言

明治生まれの両親がさりげなく生きていた姿が今,私に語りかけてくる。

西陣の空襲

2010-08-15 | 昔語り

今日は終戦記念日。 65年前 私は1歳になっていたが戦争の記憶はない。

唯 母から私達が住んでいた家の近くに爆弾が落ちたという話を聞いたことがある。

母が私をおんぶして、コンロで火を使っていたとき、ものすごい爆音とともにおんぶしたまま体が浮いた。表の家の2階建ての大屋根に大きな石が落ちてきて大変だったと話していた。焼け跡を見に行った話しとか、何人かが亡くなったと聞かされた。ほんの数キロしか離れていなかったので、もし自分の方に落ちていたら、今の私はいなかったかもしれない。これが西陣の空襲だった

食べ物がなくて「コーリャン。コーリャン」と私がよく言っていたと聞いたが、コーリャンがどのような食べ物か覚えていない。

物心つく頃には毎月の天神さんの日(25日)に傷痍軍人の人が白い着物を着てアコーディオンを弾きながら、お参りする人たちに寄付を訴えておられた。足や手をなくされて皆の前に立っておられる姿が痛ましく、少ないお金を入れていたのを思い出す。

又、小学校の映画鑑賞では、戦争で兵隊さんが殴られたり、飢えに苦しんだりされる場面や、原爆の映画も上映され、階段に座ったまま被爆されて、その影が残っている場面などが強烈に印象に残っている。

小さかった私には殆ど戦後の苦しさといったような記憶がないが、実際に大変な思いをしながら生活されていた人たちが今どんどん亡くなっていかれ、戦争の記憶も遠くなっていって、平和が日常になっている。

日本で300万人の人たちが亡くなり、アジアでは1000万にとも言われる戦争の犠牲者の方達のことを、今、平和の中の日本に住むものとして決して忘れてはいけないことなのだろうと思う。

 出征前の父と私

父の弟さんはフィリピンに行って片方の足の膝に銃弾があたり、膝のおさらがとんでしまい足は曲がらず不自由されていた。