忘れ人の独り言

明治生まれの両親がさりげなく生きていた姿が今,私に語りかけてくる。

生い立ち

2010-12-10 | 昔語り
戦時中に生れた私は生後8ケ月くらいで、生母の姉の隣に住んでいた人にもらわれました。生母は自分に何かあったら子供のいないその人に生れた赤ん坊のことを頼んでいたということだった。

赤ん坊の上にはまだ幼い兄や姉が3人いて、産後の無理がたたったのか、生後3ケ月の私を残して生母は亡くなった。
 4人の幼子を抱えて父親は途方にくれただろう。大阪の親戚に、生れて間もない私を貰ってもらおうかという話もあったらしいが、生母が頼んでいた人にやはり頼もうということになったらしい。

もしその時、大阪の親戚に貰われていたら、大阪の大空襲で死んでいたと聞かされたが、定かでない。

私を貰ってくれた両親は、本当に大切に育ててくれた。同級生が「私は兄弟が多かったせいか、貴女がそれは大事にしてもらっているのがとても羨ましかったよ」と言っていたし、他の友人も私が遠足で帰ってくる頃になると、父が自転車で様子を見にきて、母に「もうすぐ帰ってくるで・・・」と急いで連絡しにいったということを話してくれた。

母は厳しいときもあって、小さい頃 怒られそうになると急いで近所の親しくしていたおばさんの家に走っていったりしたこともあったが私が成長するにつれて、いっさい口やかましく言ったりすることもなく、私のいうことを理解して暖かく見守ってくれていた。
 父は無口な料理人で、よく可愛がってくれ、戦後 珍しいチョコレートなどもお土産に度々買って帰ってくれたりしたことを思い出す。

私が成人した時に実母のことを知ったらきっと探すだろうからという考えで母は実父とは親戚だということにして年に何回か実父の家に遊びに連れて行ってくれた。お蔭で私は自分の生い立ちを知った時にショックはあったけれど実の親を探さずにすんだ。

生母が幼い子供たちを残してどんな思いで亡くなっていったのだろうか・・・・そして私が小学生の頃、私の誕生日に大きなフランス人形を持ってきてくれた実父がどんな想いで私にその人形を贈ってくれたのだろうか・・・この年齢になって少しはわかるような気がした。

思えばあの戦争がなかったなら又、私の生い立ちも変わっていたかもしれないなどと思うときがある。
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反貧困ときずな

2010-12-10 | 世の中のこと



4日に滋賀県生協大会で「反貧困ときずな」という内容で宇都宮健児弁護士の講演やパネルディスカッションがあり、聞きに行った。

宇都宮弁護士はサラ金、ヤミ金など多重債務者の救済にあたられ反貧困ネットワークの代表として湯浅 誠氏などと共に活動されている。

宇都宮氏の「広がる貧困その再生をめざして」と題しての話の中でサラ金の被害にあわれた方が昔は法的に解決できればその後はなんとか自立にむけ頑張って生きていかれたが、今は同じように被害にあわれて解決できても社会の不況などでその後の自立が難しくなってきている。

2007年調査で全国民の中での低所得者の割合を示す「相対的貧困率」が15・7%と発表された。日本の貧困率はOECD(経済協力開発機構)がまとめた加盟30ケ国中4位で貧困率の高さが際だったと報告され、政府が貧困の削減率を立て、早急に対応すべきなのに今だ手がつけられていない状況だと話された。

また、ホームレスの人を家や経済的に応援し自立の方向にもっていっても精神的な支えがないとなかなか自立できないことを話され、やはり家やお金があっても心のよりどころがないと人間は生きづらいんだなあと感じた。

人間同士が家族にむけてでさえも「助けて!」と言えない状況はどうして生れてきたのだろう?ここの部分はもっと掘り下げて考えていくことが必要な気がした。

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