手術であちこちの筋肉がこわばっているのを感じたのもあって、近所の88歳のご婦人を誘って5月から再び整骨院に行き始めた。
電気を膝に充ててもらいながら、待合で話される方たちの話が聞くとはなしに、耳に入ってくる。(なるほど、なるほど、そうや、そうや)と心の中で合図うちしている。
いづれも80代のご婦人たち
「年とったらあきまへんなあ」「近こうなって」「夜中に何回も起きますね」「辛抱してたら大変ですわ・・・」
「孫がこの間も遊びに来てくれましてね」「みんなが来てくれると嬉しいですなあ」
「嫁がようしてくれてね。田舎から来てくれてた嫁で素直でね。喜んでます」「よかったですね。奥さんがようできたお人やからですわ」
こんな会話から年をかさねるとやっぱり一人はさびしいし、誰かそばにいて話できることが何より元気の素になるのだなあと思った。
私自身も以前は思いもしなかったことだが、時折何とも言えない 寂寥感のようなものをふと感じるときがある。これが年をとるということなのかなあと感じ、亡き両親に対して働いている時は忙しさにかまけてゆっくり話を聞いてあげることも少なかったし、もっと話しておけばよかったと今になって思う。
そして1年以上も前からだが自身の命の炎(ろうそくの炎のようなもの)がひとまわり小さくなったなあと感じたことがあった。これもそのうちなのだろう。
このように書けば少し気弱く感じるかもしれないが、いえいえ! 口だけは達者 嫌われ意地悪ばあさんの部分があって、これが生きていく活力にもなっているなかも・・・・ね
せたしじみさんの ブログはお写真がとっても美しいですね。
文才があるというか、勉強熱心さが文章からも伝わってきて 教鞭をとられるお仕事につかれておられたのかなあと想像しておりましたら 保育士さんということで なるほどなあと。
町の意地悪ばあちゃん…いいじゃないですか、逞しくて(笑)
でも たぶんむしろ 世話好きで困っている人を見るとほっとけない方なんじゃないかな、なんて またまた勝手に想像させていただいてます。
私の住む県は今回の震災の被災地です。
病にしても、災害にしても 神はその人が乗り越えられる試練を与えるといいます。
頑張らなくてよい、出来るだけ毎日を楽しく 自分を大切に生きていきましょう。