今年6月に亡くなった「早川一光先生を語る会」の案内のビラを知人が送ってきてくれた。
数年前、先生にお会いした時の優しい握手のぬくもりが、そして数々のご本の中の言葉が心に残っていた。おわかれの挨拶の代りにという気持ちもあり、寒い日だったが思い切って参加した。
会場は既に満員、壇上で先生の奥様が車椅子で話されていた。
戦後、まもなくの頃、庶民のお腹の中には回虫がいて体調を崩したりすることが多くあった。検便の検査をしてその予防にと、地域の人々にマッチ箱の空き箱に糞便を入れるようにと指導されたが、なかなか理解してもらえずマッチ箱が飛んで来たりした。(私も小学校の頃、検便をマッチ箱に入れて持っていき、回虫予防にとても匂いのきつい液薬を飲まされた思い出がある)
そこで幻燈機のようなもので実際に回虫を映し出しそれを皆に見せ、やっと理解されるようになった。幻燈機を買うのにお金が足りず奥さんがお嫁入りの時に持ってきた着物などを売り工面されたそうだが、このことは先生に内緒にされたそうだ。
又結核にかかる人も多くあった時代、路地裏にも足を運びその治療に尽くされたことなど話された。
最後に妻の幸恵さんが「70年共に過ごしてきた、もういないと思うと本当に悲しいです。」と心から言われた言葉が強く響いた。
2018年6月2日、早川一光医師が亡くなりました。94歳。1948年に京都府立医大を卒業し、50年に西陣の住民が出資して創設した診療所に呼ばれ、26歳で所長になりました。それ以降、亡くなる瞬間まで「医師」として生き抜きました。「地域医療・在宅医療のパイオニア」と称される戦後日本を代表する医療者であり、認知症をいちはやく社会問題として取り上げ、1980年「呆け老人をかかえる家族の会」(現・公益社団法人認知症の人と家族の会)創設に関わりました。亡くなる2か月前までKBS京都で30年余続いたラジオ番組「早川一光のばんざい人間」のパーソナリティであり、医学、哲学、芸術、宗教が融合する「総合人間学」構想を語る夢追い人。
晩年は多発性骨髄腫を病んだことをきっかけに、患者の立場から、医療、看護、介護のあり方や、いのちや健康について自分たち自身の課題として考えていく大切さについて発信し続けました。彼が追い求めた「医学」「総合人間学」「大往生」とはどんなものなのか? 早川一光を知る人、関心を寄せる人が集まって、それぞれの目で捉えた「医師早川一光」を語り、志を引き継ぐ集まりを開きます。生前を知らない皆様も、是非ご参集くださいますようお誘いします(案内文より)
思い出を話される早川幸恵さん 会場4階に展示された写真の中から
会場では各分野毎に早川先生と共に歩まれた方々、約50人近くの人々が話された。
いずれも話は尽きず始めに決められた時間 5~7分をはるかに超え、司会者の合図の鈴がいつもなっていた。
早川先生と共に歩まれた病院の先生方や先生の指導を受けた医学生、看護士、病院事務関係、患者、家族の会、マスコ関係、宗教関係者など全国から駆けつけた方々の話はどれも先生の明るさ、優しさ、希望を与える人柄を感じさせそのすごさに驚いた。
早川一光 遺言 ラジオは空飛ぶ診療所 KBS京都
180630
ぼけない音頭
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