させられる連想には、ろくなことがない。
つまらない連想を強いられて、それが続くと、もともとよくない脳の働きの品格が、ますます劣悪になる。
こういう性向を他力奔贋という。
道端にあるものは、その場での連想と、写真に撮ってからの連想が違ってくることがある。
違いが大きいのは、土門拳の提唱していた「モチーフとカメラの直結」が成り立っていない、つまり「実相観入」の域に達していない未熟な写真なのだ。
この写真から連想したのは、背負った家が三つもできて、途方に暮れているかたつむり。
ばかではないか、と思うだろう。