逆転の発想などとよく言われますが、ものごとで逆転が許されるのは発想の手法としてであって、自明の理であることまで逆転させようとすると無理が生じます。
始末の悪い逆転もあって、公と個の逆転、目的と手段の逆転などがその部類に入ります。
公は個の組み合わせですから、個が公より上位ということはあり得ません。
公の顔をして、ときどき中の個が公らしくないことをしでかすこともあります。
その場合には、弾劾されて当然なのですが、ダンガイの気流に酔ってしまい、場合の当否も見極めずに公を攻め立てる、外れた個もあらわれます。
科学研究などは、個が単独で行えることはたかが知れていますから、公の中で行われることが多いでしょう。
その場合には、研究成果は公のものであって、個の領分は研究の過程でしかありません。
成果を得られたことが公に貢献して、公から賞せられることもあるでしょう。
しかし、公から賞せられたからといって、その成果の分け前を自分のものにしたいという個の考えは強欲でしかありません。
公のなかで行ったことを、個人の権益の材料にするのは大間違いです。
国内でそれが認められないからと、頭の中にあることや体験から得た技術を、外国に出て売り歩く行為は、まさに公と個の逆転です。
発想には大いに逆転を、しかし逆転が目的になっては人間失格、サルに逆戻りとうことになります。