原理原則はそうなっているあたりまえのことと尊重されるのに、原理主義と名がつくとなぜ嫌われるのでしょうか。
主義のあたまにつく原理は、そうなっていることでも、そうでなければならないということでもなさそうなのです。
あたまの働き、こころの動きが、どうしても引きずられてそうなってしまう何かなのです。
姿を見せずにじっと構えている気味の悪いその何かは、人のこころをつかんで離しません。
ものごとのひとつひとつに判断過程を経ないことには変わりはないのですが、判断の要らないのが原理で、判断をさせない許さないのが原理主義であるように思えてきました。
「なってしまう」のだから判断を許さない、なんでもひとと同じでなければならない、これでは窮屈でたまりません。