何か事故が起きると、どうした、ああした、こうなったと、状況説明は細かく報道されます。
そんなことまで知らせなくてもと思うほど、どういう状態なのかがわかりやすく知らされます。
しかし、わかりやすいということが、核心が確実に知らされていることにはなりません。
知られると都合の悪いことには、ピタッと蓋が閉まっているからです。
状況説明ですら隠される部分があるならば、もっと報道しにくい原因のほうは、慣用語登録をしてある辞書から引き出してきたかのような文言でしか知らされません。
同じような事故を繰り返さないためには、原因が究めつくされなければなりませんが、ことごとに発表される原因をみると、「なぜ」のわからない、状況説明の言い換えのような報道が多いのです。
事故を起こしたとされる人は、罰せられるか処分を受けるかしますが、先に決めた処分の匙加減に釣り合った報告書の文面に適合するよう、原因が作られたのではないかと思うことさえあります。
原因⇒現象⇒結果⇒処分という「時の順序」をわざわざ逆転させているのではないかと、奇妙な見方もしたくなります。
再発や類発の防止には、処分の勘案とは次元を変えて、徹底した究明が法のもとに行われなければ、読みやすいよう、聞きやすいように作られた報告が慣例となって続出します。
事故原因究明法を制定し、原因を曲げたり創作したりすれば法に触れるという制度を作らなければ、肝心のところに究めの知恵も届かずに終わってしまうのではないかと思うのです。
いかがでしょうか。