・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

冷観・暖感ノート:10

2017年10月22日 | つぶやきの壺焼

主語が必要と言われます。
主語がないから言っていることが駄目という、奇妙な判定法もあります。
ある民族の言葉には、それがないと構文が成り立たないという"文法"が作られてしまっているからでしょう。

言葉の形を整えたいと思う人は、「私は」とまず主語をはっきり言うことに心掛けます。
新聞に載る機会があれば、翻訳されやすい形にしておきたいという計算をしているかどうかはわかりません。

ちょっとあらたまった話になると、とにかく「私は」で始めることを習慣にしている人がいます。
話すことの切れ目にも、「私は」が割り込みます。
ところが、「私は」のあとに続く言葉は、ひとの噂や受け売りばかりで、その人が何を考えているのか、何をしようとしているのかは、何もはっきりしません。

むかし、大臣という職にある人の国会での発言にも、そういうのがありました。
それを見てから、TVの国会中継録画は、見る気がしなくなりました。

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