かけたコストには、いつまでも値打ちが残るという妄信があります。
高い授業料を払って塾に通い、東大を卒業して修行を積み、国会議員になった、俺には私には莫大なコストがかかっている、それが何よりの値打ち、思いどおりのことができなくてどうする、この議席は一生もの、手放してなるものか、そんな人には、かけたコストのことしか頭にありません。
思いどおりのこと、何をするのか、何のためなのか、値打ちはその未来にあるとは、なかなか考えません。
激しい練習、横柄な先輩づら、そんなことに耐え抜いて、海の向こうにまで行ってはみたものの、持つことができたのは、働かずに高い看板料がもらえるという奇妙な資格、いや、仕掛けかな、そんな人もいます。
「おれには元手がかかっている」と鼻の穴を広げる、してみせることはそれだけです。
かけた元手が値打ちと思っていれば、これから何をしようか、そんなことは何も考えないでしょう。