インタビュー形式の放送番組があります。
招かれて出演した人の言葉から感銘を受けたときは、その放送を視聴したことに大きな価値を実感できます。
感銘度をむりやり数値化しても、作為丸出しのものにしかなりませんが、大小の傾向はもちろんあります。
感銘度の傾向は、招かれた人の発言が、局側の人の発言よりも優っていたかどうかにかかります。
局側の人の自説自慢が、中心にならないまでも、それがちらついたとき、感銘度に負の効果があらわれます。
ひどいのは、局側の人が、局の意向を代弁して、招かれた人をひきずり回すような話のやり取りになったときで、正の感銘効果は全く打ち消されてしまいます。
愚報の産声はそういうときにあがり、雀が踊らなければいっそう笛の音が高くなります。
招かれた人が、自らの意思を曲げず、局側の話の波に乗らなかったときでも、その部分の切り取りに、昔のようなテープを切ったり繋いだりの手間暇はいりません。
切り取られた部分は、電波に乗らずに簡単に消えてなくなります。
その招かれた人が、次にまた招かれる機会はたぶんなくなるでしょう。
どう贔屓目に見ても、公共の電波にこんな番組がなぜいつまでも続くのかというのもあります。
その答えは簡単、愚報のほうが作りやすく、受けやすいからでしょう。