日本の歴史をまっすぐ見つめていくと、ほぼ一世紀の間、和の精神を支える我慢強い民族性発揮があだになっていることがわかります。
我慢強さの限界意識が薄れると、我慢下手になります。
仕事となると、理不尽なことにも仕打ちにも、目をつぶって我慢します。
そのとき考えるのは、それぞれの仕事の座の継続維持でしょう。
仕事の座を失わないことが最優先という頭の働きは、能力と待遇の調和が崩れていることがそうさせる場合もあります。
能力水準が低ければ、今の有利な待遇をほかの場で得られることはないだろうと考えます。
首長や議員という仕事の座もそうでしょう。
選挙のときに票を集めることだけはできても、当選してその座を得た後、座にふさわしい仕事をするには能力不足で、お仕着せの権限をただ消費するだけという例が、あちこちに見られます。
そのとき我慢を強いられているのは、当人ではなくうっかり票を入れてしまった人たちという、まことに皮肉な我慢比べになっているのです。