常人であれば、大きな顔をして来られそうにない相手を、儀式に招待、なぜと問われてそれが外交という答えもあります。
もう一度、常人であれば、理由を作って丁重なお断りが来ると期待しても、仕方がないから行ってやると言わんばかりの返事が来る、それもまた外交なのだそうです。
顔を見合わせれば、手を差し伸べないわけにはいきません。
そんなことを繰り返していくうちに、儀礼が儀礼でなくなり、相手には優越感、こちらには鬱屈感が積もっていきます。
国際交流の実績としてだいじなのは、そこではっきりものを言わせ、世界に向かって正確に報道しておくことで、作り笑顔の握手写真ではありません。
会ったときにボソボソと交わしていた話などは記録に残らないでしょう。
記録にない記憶だけでは、自分の発言をだいじにする人同士でなければ、切り札にはなりません。
下手な心理小説の筋書きのようなことを、知ってる自慢にする人の話は、まずあてにはならないでしょう。