冬の港の夕暮れ、飼い主は背を丸め、飼い犬は短い足を踏ん張る。
飼い主は何がしかの悩みを忘れたいと時を過ごし、飼い犬は退屈だけがいまの悩み。
ずっと座り続けている飼い主は、この町ではストレンジャー。
ご主人の立ち上がるのを待っている飼い犬のすることはストレッチしかない。
冬の港の夕暮れ、飼い主は背を丸め、飼い犬は短い足を踏ん張る。
飼い主は何がしかの悩みを忘れたいと時を過ごし、飼い犬は退屈だけがいまの悩み。
ずっと座り続けている飼い主は、この町ではストレンジャー。
ご主人の立ち上がるのを待っている飼い犬のすることはストレッチしかない。
素人が塗ったような塗装面を見かけることがある。
びしっと塗られたところはなんとなく見過ごすが、塗料の垂れた跡などがあると、それが紋様に見え、むしろ野趣を感じて面白い。
「塗れたか」「はい」「うーむ」
出来上がったときの会話はこんなだったのではないか。
鳥の形には自然の巧みさが集約されている。
駅の階段の手すりに、鳥か。
自然にできた鳥とはまったく無関係のものが、鳥に見えることがある。
人間が作ったもので、実用にならないけれども実在するものを、赤瀬川源平は「トマソン」と呼んだ。
この鳥は、作られずにできてしまったもの、こういうのは、なんと呼んだら面白いだろうか。
「私の中では」という言い回しを、私は好かない。
私という一個の人間の、そのまた中に、誰を連れてこようというのか。
そんなものをむりやりねじ込めば、肝心の 「私」 も崩れていくではないか。
「私は」といちいち言うのも時によってくどいが、これは文章にはどんな場合にも主語が必要であるという、作文上の迷信に侵された人たちが、何かを言い出すときについ口走る単語である。
それでさえも、「私の中では」とことさらに主語をぼかした気取りげな言葉よりは、ずっとましだ。
朝はにぎやか、夕べは静か。
魚市場の日暮れどき、人もいなければモノもない。
なにもない空間。
犬の1匹ぐらいは、いそうなものだがと思ったが、よく考えれば、このあたりで犬のリードをはずそうものなら、すぐご注意をいただいてしまうのだった。
安全第一、情緒は第二か。
駅の構内にコンクリートのU字溝があるらしく、蓋だけが見える。
大きなものではないが、信号線だろうか、だいじなケーブルが入っている様子である。
傍らに「ケーブル有り」と書いた標識板がところどこにろ立っている。
1.だいじなものがあるから気をつけよ、と誰にもわかるようにしておく。
2.だいじなものはそこにあることがわからないようにしておく。
防御方法には二通りあるが、うっかり者に効くのは1の方法、いたずら者に効くのは2の方法ということになる。
1は平和感覚、2は騒擾感覚。
やはり1番がよい。1番の向いている世の中であってほしい。
冬は花が少ない。
冬の道で、通りすがりに花を見つけるとほっとする。
豪勢な鉢植えでなくてもよい。
ひょろひょろと伸びた茎の先に一輪、それでもよい。
見せてくださってありがとうと言いたくなる。
駅の通路に「ふらつき注意!」というポスターがある。
ホームから落ちる人が増えているので、効果はともかく貼っておこうというわけか。
駅のホームの端が、場合によって危険なことは誰でも知っている。
落ちるのは自殺か泥酔のどちらかだろう。
自殺願望には、ここにしようかという誘引効果が働くかもしれない。
泥酔すればこんなポスターのことは忘れてしまう。
落ちそうな人はまだいた。心の病に罹っている人だ。
自分の行動がわからなくなるほど病んでいる人は、落ちる危険を感じない。
そういう人は、ひとの背中を押せばえらいことになるとも思わない。
ホームに柵を設けなければならないというのは、人の病よりも世の中全体の病、これは半世紀かかって罹病した超難病である。
影踏みという優雅な遊びを、近頃の子は知っているだろうか。
長い影のできるときに外には出ない。
そんな子供たちに言葉で教えても、「なにそれ」ぐらいで終わりだろう。
1月末の朝9時ごろ、影の長さは実物の高さの3倍はやや大げさ、2倍半ぐらいになっている。
どういうわけか、長い影には、心を落ち着かせる何かがある。
探偵という商売は、人が秘密を持つことで成り立つ。
スパイという仕事は、国や企業が秘密を持つから成り立つ。
それぞれが身分を秘密にしているからこそ仕事に価値が出るのに、どういうわけか私はスパイだとTVに出て顔を見せたがる人も現れる。
探偵やスパイの次の仕事にしっかり見定めがついていればよいが、ちょっと様子がいいぐらいで顔をさらけ出したのでは、数年も待たずに一生分の仕事が終わってしまうだろう。
そうして仕事を持てなくなったときは、野垂れアル中薬漬け、死亡記事も3行だけ、ということになる。
これから冬本番なのに水仙は花盛り。
春の花かと思っていたが、冬ものだったのだ。
トリミングなしのフルサイズが撮れると嬉しい。
これも一種のナルシシズム。
花壇で春を見事に見せるには、冬の間から手入れが必要。
野の花は、ばらばらのときも、草と一緒になっても、それなりの美しさを持って咲くが、花壇ではそうはいかない。
共存の否定という、やや依怙地なところが花壇には必要なのだ。