大災害が起きると、とりあえず何でもなさそうなものも気になる。
普段は目をそらして歩くようなものでも、じっと見るようになる。
見つめたとこで、どうなるものでもないのに。
大災害が起きると、とりあえず何でもなさそうなものも気になる。
普段は目をそらして歩くようなものでも、じっと見るようになる。
見つめたとこで、どうなるものでもないのに。
何もなければ、2輪車などはここを通り抜けようとするだろう。
近道の選択は、回り道より優れているという、迷信に近い効率優先の習慣が、本能のようにくっついてしまっているから。
敷地の隅のごくわずかの部分でも、花壇か植え込みか、そういうものがあれば、通り抜けはしにくい。
障壁ではないが、障壁の役目をしながら通る人の目を楽しませてくれる、そんな工夫をしている人がいたのだ。
障壁とみれば何でも撤廃、TPPなどと横文字略号のついたことならなんでもOK、そんなことはもう前世紀にさんざん苦い思いをさせられた、あれやこれやでもうたくさんなのだが。
鳥!__
『眼は口ほどに遠慮せず』
あまりづけづけ言えない口の持ち主も、そのちょっと上についている眼は遠慮なしに観察している。
「鳥がいる」とその場で言っても、相手には見つからなかっただろう。
人は、ものを見るとき、そう見たいと思うように見る。
見たくないものには、目が届かない。
見ぬふりをする素振りもいらないほど、霞むときさえある。
見ないように、見ないようにと、人の心が動かされてしまえば、目の霞みは雰囲気の霞みとなり、何かだいじなことを見損なう。
都合がよいと思っていたことが、大不都合を呼び寄せることに気付かない。
自然の石らしいものと、人口の石らしいものが、砂浜に並んでいた。
人口の石、つまりコンクリートの塊は表面から徐々に崩れていく。
自然の石は、崩れるのではなく、穴だらけになっている。何かに溶かされているかのようにも見える。
溶解か。ことによると、この石は、そんなにむきになって頑張り続けなくてもいいと思いはじめたのではないか。
石が何かを考えるはずがないというのは、人間が勝手にそう思っているからで、石の意思など理解しきれることではない。
ついでのダジャレを連発しておけば、石頭のことは吾人のスカスカになった蜂の巣頭では理解できないのだ。
ものごとの理解というのは、溶解からはじまるのではないだろうか。
沽券と名付けられた正体不明のものが、理はどうでもよく溶けてなくなっても別にどうということはないと思いはじめたとき、早く言えば、沽券のメルトダウンが始まったときに理解の道が拓けてくるのだ。
この作用は、じわじわ溶解がすすむところが肝心なのだ。ストンと落してやろうと事を急げば、きっと水蒸気爆発を起こすことになるだろう。
HN発電所の事故は、放射線と一緒に、こんな知恵もまき散らしてくれたのだった。
小学生のころの文具に画板というのがあった。ガバン、あまり心地よい響きの言葉ではない。
「図画」という絵を描くだけの課目が独立してあって、「書き方」という筆文字を書く課目、「手工」という手作業で何かを作る課目と分かれていた。
そのころは鑑賞による教育というものはほとんどなく、創作することや丁寧に物を作ることに重きを置かれていた。
図画の授業のある日にはA3ぐらいの大きさだったか、ななめ対角に紐のついた板を持ち歩いていた。
学校でもらったのか、家から持って行っていったのか思い出せない画用紙を、行き帰りにどういう具合に画板に止めてあったのか、それも思い出せない。
画用紙を画板に置いて絵を描いたことだけは間違いなく覚えている。描いた絵も2枚ぐらいは覚えている。
描いた絵の記憶の芯にあるのは、うまく描けたとか、思うように描けなかったとか、そういうことではなく、描いた題材とは関係のないできごとである。
散歩道に、ろう石で描いた道幅いっぱいの絵があった。
ろう石は、いまは何と呼ぶのだろうか。
そのかけらが一つあれば、自分の部屋も、お姉ちゃんの部屋も、扉、動物、花も、思いついたものがすぐそこに現れる。
車も人もめったに通らない農道は、子供らの夢を思いどおりに展開できる大きな画板になっているのだった。
壊した後をあえて直さない。
それでも、花のあるうちは風合いの活きることもある。
ブロック塀を欠きとったあと、モルタルで補修してあったら、多分カメラは向かなかっただろう。
天災の後にもそのままでよいところがあるかもしれない。
人災の跡はどうだろうか。風合いよりも悲哀を強く感じるに違いない。
させられる連想には、ろくなことがない。
つまらない連想を強いられて、それが続くと、もともとよくない脳の働きの品格が、ますます劣悪になる。
こういう性向を他力奔贋という。
道端にあるものは、その場での連想と、写真に撮ってからの連想が違ってくることがある。
違いが大きいのは、土門拳の提唱していた「モチーフとカメラの直結」が成り立っていない、つまり「実相観入」の域に達していない未熟な写真なのだ。
この写真から連想したのは、背負った家が三つもできて、途方に暮れているかたつむり。
ばかではないか、と思うだろう。
そうでないものを、そう見てしまう。
見るほうは、そう見たいのではないのに。
それを、疑心暗鬼という。
そう見る人もいる、といううちは、まだよい。
そう見ない人はおかしい、となると、もう危ない。
疑心暗鬼は恐ろしくないが、疑心暗鬼であることに気づかないことは恐ろしい。
巨大なコンクリートの塊、広い大きな海。
それを眺めるヒトもハトも、同様に小さい。
大きなものが暴れ出したときには、遠ざかるか、飛び立つか、生きものにはそんな方法しかみつからない。
作ったものは、いつかは壊れる。
壊れたところを見れば、作った人の気持ちがわかる。
心の込め方がわかる。
ほい、こんなもんでよかろう。
そういう作り方のものに、風雪に耐える力はない。
整った風景写真は、絵葉書写真と呼ばれてさげすまれる。
写真を絵葉書のようだと言われると、いい気持ちはしない。
整っていますというだけで、その風景には何の取り得もない、ただ何となく気持ちがすっきりするだけ、それが理由らしい。
気持ちがすっきりする、そのことが、なぜバカにされるのか。
足の抜けない泥沼からは、それが羨望鏡に映った景色にしか見えないからだ。
人間には、奇妙な鏡に映してものを見る習慣が、いつの間にかついてしまっていたのだ。
鏡よ、鏡、もういいから消えてなくなれ。
花は散るもの、落ちるもの。
落ちて散らばっただけなら、まだ狼藉とは言わない。
グレーチングを潜り抜け、排水溝を詰まらせたときから、狼藉となる。
狼藉被害の大小は、活動開始よりずっと前、花が落ちたときの処置で決まる。
花は落ちるもの、だが、咲いているときだけしか見ない人が多い。
人は、見たくないものに目を向けず、あってほしくないことに考えを及ばさない。
「こんなこともあるのに」と言った人が、異端者とされる。
タブー、それが狼藉拡大を強力に支援する。
言わずにほくそ笑む、花はそれを己への賛美と見誤る。
ガードマンという職はあるが、ガードフラワーはないだろうとググってみると、「ホルムガード フラワーベース」というのが現れた。
デンマーク王室御用達のホルムガード・ブランドの花瓶だった。
板を寄せて縛っただけのフラワースタンドとは、だいぶ格が違いそうだ。
いつのまにか原発の台数は54基に増えていた。
いま完全な運転状態にあるのは23基というから、調整運転中から停止中、廃炉にごく近いものまでが31基という勘定になる。
こんなにたくさん止まっていて何とかなっているのなら、全部止めてもいいではないかという論法はもちろん成り立たない。
原子力発電をいますぐに全部やめてしまえ、それ以外の発電で賄えるからなどとデモ用の暴論を唱える人もいるが、話はそれほど簡単なことではない。
火力発電には、地球の3分の1周ぐらい回ったところでいつも戦争をしている国から、燃料を高い値段で買い、海賊が跋扈する物騒な海を通って運んでこなければならない。
ロシアのガスがいちばん手近だが、あそこはいつ寝返るかわからない。
水力発電で賄える電力はたかが知れている。八ッ場ダムの発電量など、ないよりはましぐらいのものでしかない。しかも水はお天気任せである。
風力や太陽光、これもお天気任せ、雨、風、お日様をうまく組み合わせればいいではないかと考えるかもしれないが、それも子供の絵本のような話である。
波の力はさんざ見せつけられたから、すごい力を持っていると知っても、海がこちらの都合に合わせて力を貸してくれることなど当てにできるものではない。
これから3年後5年後と年数を経るごとに、エネルギー事情はぐんぐん厳しさを増し、これまでの生産機構、生活習慣のままでいけば、7年後にはお手上げ状態になるだろう。
もし原子力がどうしても嫌なら、日本中が電気は贅沢なものという感覚に宗旨替えをしなければ、それ以外の方法で需要を満たすことはできない。
危ないから嫌だと言っているだけでは、デモを打とうと何をしようと、問題を買片づけることはできない。
電気に甘え過ぎた文化テキ生活は、いま深みにはまってしまっているのだ。