工事中だった道路拡幅、完成が近い。
ゆっくり手のすいたときにやる。
そういう工事もあってよいのだろう。
開通はいつか。
テープカットはないだろうから、今年度中でよいことになっているのか。
工事期間の表示が、あったかなかったか、気づかなかった。
工事中だった道路拡幅、完成が近い。
ゆっくり手のすいたときにやる。
そういう工事もあってよいのだろう。
開通はいつか。
テープカットはないだろうから、今年度中でよいことになっているのか。
工事期間の表示が、あったかなかったか、気づかなかった。
看板にもいろいろあるが、これも看板だろうか。
字が書いてないから表札ではない。
表道路に向けてあるから、やはり看板と見ておこう。
看板は、こういうふうに見て楽しいのが好い。
それと、字なら読めるように書いてほしい。
この看板は、店舗用ではないからよいが、店なら、屋号がわかる看板がよい。
小さな花を見ると、丸顔のほほのほくろを思い出す。
残念ながら実物ではない。「可愛い花」を歌うザ・ピーナッツの、おや、ほほではなく目じりだったか。
http://www.youtube.com/watch?v=F4SpF6FK9_M&feature=related
咲かせられるのでなく、咲いた花は、季節を過ぎてもまだ咲く。
いつだったか、湯河原で冬に咲く朝顔を見たこともあった。
種が散らばれば、また来年も咲いてくれるだろう。
同窓会で集まるたびに耳の遠い人が増えていく。
幹事が話している普通の声が聞こえない。
いちいち通訳していると話が進まない。「あとから行くよ」でいったんは気が済むが、すぐにまた聞こえないと言い出す。
補聴器を両耳に入れている。あれは片耳ではよくないらしい。
座卓の真向かいに座っているが、こちらの話は手まねを入れないと届かない。
最近めがね屋さんで補聴器を売っているところが増えた。
眼科と耳鼻科はまったく違うお医者さんなのに、めがねと補聴器を一緒に扱う理由がつかめなかった。
先日の会合で、やっと納得がいった。
めがねも補聴器も、誰にでも合い、どんな場合にも使えるというものはない、という共通点があったのだ。
眼と耳が二つずつ近所にあるからではなかった。
ふと思った。五感には、実用五感と観応互換があって、めがねや補聴器に、実用視聴覚を超えたものを求めると、いつまでも不満の残像や雑音が残るのではないだろうかと。
自転車をそのまま電車に持ち込まないでくださいと、駅にポスターが貼ってある。
軽くて手で持てればいいだろうと、そのまま持ち込んだ奇人が何人か出たのか。
ブレーキのない自転車で歩道を突っ走るのも、おそらくこの手の人間だろう。
自分がこうしようと思ったことは、何でもやってよいことにしてしまう。
あのバカがと思っても見た人が黙っていれば、それで世間が認めたことにしてしまう。
とがめる人がいると、誰がそう決めたんだ、と言い張るに違いない。
その果てが、このポスター。
このポスターは、いかにも恥ずかしい。
親も学校も、何も肝心なことを教えなくなってしまったのを、宣伝しているようで恥ずかしい。
国辱ではないかとも思う。
E/C/Hの外国語で書いてあって、日本語を添えてあるならまだしも。
エレベーターみんな戸口を向いて立ち
エレベーターを見ると、ときどきこの川柳と作った人の顔を思い出す。
駅や歩道橋にもエレベーターができ、初めて乗った人は出口がどちらかわからないので、思い思いに立つようになった。
駅のエレベーターは、もともとそんなつもりがなかったので場所に苦労する。しかも結構かさばるものを置くので、階段を狭くしてみたり、ホームの通路を狭めたり、いろいろ工夫されている。
駅の階段は、共同住宅の非常階段などと違って、乗降客がなるべく上がり下りに苦にならないように作ってある。
せっかく階段を歩ける機会なので、特別な場合以外は駅ではエレベーターに乗らないことにしている。
エレベーターに向かう人を見ているのも面白い。平均歩行速度より早足になっている人が多い。
立派なスニーカーを履き、ウオーキング・ファッションンに身を整え、ルックザックを背負った、まだ髪の黒い人も急ぎ足でエレベーターに向かう。
ああいう人は、きっと家に歩行器を置いてある。
運動は楽しく、生活は安楽に、というのだろう。
隣の階段を、荷物をぶら下げてちょっと歩くのに不自由そうなおじさんが、ゆっくり登っていく。
世はさまざまである。
あけびをはじめて食べたといったら、なんだと思われるだろう。
道端の出店で野菜と一緒に売っていたおばさんが、今年はたくさんなった、もう終わりだという。初めて食べると言ったら、食べたことのない人はたくさんいますよ。
話は10月下旬のこと。
種が黒くなっていてちょっと気味が悪かったので、冷やしておいたままにしたら、食べないのかと催促された。
ほのかな甘味、ナタデココを柔らかくしたような舌触り、格別な味でもない。
朝早く山で見つけて食べてこその美味さだろうと思った。
やはり野で食えあけびの実、か。
そうだ、種をとっておいて蒔いてみるのを忘れた。
昨日の写真の円盤形の雲は、もうひとつ出ていた。
気象にダイポールモード現象というのがあるそうだ。
夏から秋にかけて、インド洋東部に下降気流が生まれ、それがふた手に分かれて一方はアフリカ東部に、他方はインドからインドシナで上昇気流を起こし、両方に大雨を降らせるという。
それほどに大掛かりでなくても、気象には、ときどき同じような二つのことが一度に起きそうなことを考えると、南の空に見えた二つの雲にも、何か相互に関係があるような気がしてくる。
ダイポールモード現象が発生した年には、良質なブドウが収穫され、美味いワインがつくられるという。
二つの円形雲も、何かよいことの前兆になってくれればよいのだが、果たしてどうだろうか。
珍しく円盤形の雲が現れた。
富士の真上のこういう雲は、ときどき写真でも見たが、何もない洋上にこういう雲を見たのは初めてのような気がする。
あるいはそのつもりで見ていなかったので、記憶に残っていないのかもしれない。
もう少し形が崩れないうちに見ると、「あ、UFOだ」と思う人も出てくるだろう。
また何か起きると嫌だなと、かすかに案じてはいたが、何もなかった。
ちょっと何かがあって、そのあと何ごともないときが、いちばん平和である。
写真は不思議。
実物を見たときにはそう見えないものが、写真画像にしてみると何かに見えてくる。
ときどきそういうことがある。
自分がそう思っているだけで、ひとにはそう見えないこともあるだろう。
見たからあった、見なかったからなかった、そんな情報のいいかげんさもこれに似ている。
「俺が見たんだから」などといっても、その存在証明は、自分向けにしか通用しない。
出かけるついでに、本を返しに図書館へ寄る。
曲がり角に女の子がしゃがみこみ、大声で泣いている。
駄々っ子の代表格に見える。
若い母親はじっと立って見ている。
どこかのおばあちゃんが、子供に声をかけていた。
本を返して駅に行く。
ホームに上がってもまだ声が聞こえている。
泣き声がガードをくぐる。
その先を見下ろすと、母親は黙って子供を引きずっている。
手を離せば寝転んだままになるだろう。
子供も離されれば置いて行かれる。
生きるためには、互いにがんばるしかない。
何があっても生きる。
草木は強い。
根元近くで切っておいても、いずれ舗装と柱の隙間を見つけて割って伸びる。
芽の先で割られるよりも、外に芽を出せるようにしておいたほうが、舗装を壊されずにすむという知恵からか、根元のほうはあえて切り取られていない。
引きずられながら芽を出している様子を見て、ある情景を思い出している。
それは、明日書くことにしよう。
自然を模倣したデザイン、自然を感じさせるデザインは、人の心を和ませる。
しかし、自然をデザインすることはできない。
優れたデザインで自然を作ろう、デザインが自然を変える、そんなことは、言うのは勝手だが、言ったそばからたちまち嘘になる。
自然の一部を、あるひとかたまりの人間に都合のいいように変えることはできても、それが自然を変えたことにはならない。
人間には天邪鬼が多く、変えられないもの、変えてはならないものを変えたがり、変えればよさそうなものを変えようとしない。
スイッチがたくさん並んでいる制御盤では、スイッチの目的によって把手の形を変えておけば、まったく違った目的の操作を間違えてする危険は激減するだろう。
大きさを少しぐらい変えておいても、似たような形、同じ色の把手を使っていれば、間違う機会は間違いなく増える。
いま、空を飛んでいる飛行機の操縦室に、たとえば機体姿勢制御操作用と、機内扉開閉操作用のスイッチの把手を比べたとき、大きさは違っても同じ形のものが使われているとしたらどうだろうか。
人間が空を飛ぶという自然に打ち克ったつもりの行為も、安全安心であるとは言い難くなる。
家電のスイッチでさえ、ごく自然に働く人間の感覚では、間違えてしまうようなデザインのものがある。
どう使うかという機能への配慮が、見た目がよいということの後回しにされるデザイン思想が、戸惑いや間違いを引き寄せるデザインを優美なもの優位なものにさせてしまう。
ものごとの順序のうちには入れ替えてはならない判断基準がある。
総合判断というお題目と、設計承認という手続きのどこかで、物差しのあてがい方を間違えているのではないだろうか。
パンでも饅頭でも、みの入ったものは美味い。
口に入れたとき、噛みしめたときに感じられる、作った人の心意気が、食べ物の「み」だと思っている。
ただ甘いだけ、むやみにべとべとしているだけ、ツンツン匂うだけ、驚くほど辛いだけ、そんな食べ物の多い中に、「み」をだいじにしていそうなクリームパンを見つけた。
『一つ一つの「お品」を徹底的に考え抜き、丁寧にお創りする。それが今の八天堂です』と言っている八天堂というパン屋さんが広島にある。
http://www.hattendo.jp/story/index.php
手の込んだケーキではない。見るからに単純なクリームパンなのである。
先日、二文字の題名の面白そうな本を図書館で借りてきた。
いくつかの賞をとっている作家の本で、広告につられて予約しておいたら、早く借りられた。想像していた厚さの倍ぐらいあって、おやと思う。
なんとなくすぐ開く気にならず、数日後に読み始めた。
朝起きて、何をして、かにをしてと、生活情景描写でもないこまごましたことがしまりなく続けられている。
この本は「み」がなさそうだと、目はその先へ進まなくなった。
食べ物にしても、読み物にしても、「み」のないものに出会ったとき、作った側にも受け取った側にも、そこに小さな不幸が生まれる。
すぐにあきらめがつくその不幸は、あえて気にしないだけに、どこかにこびりつくのではないだろうか。