知りたいことがあれば、相当程度まで、自分の部屋にいながら情報を得られる、ありがたい時代になりました。
そのかわりに、通常のTV番組や、なじみの新聞からは、本当にだいじなことを知り得なくなりました。
おかげで、日常生活と情報環境の関係が、不思議でもあり残念でもある状態にねじ曲がってしまいました。
不思議なのは、本当のことを知りにくい情報システムの代金が、本当のことがわかる情報システムの代金より高くなっているということです。
高いほうから安いほうに乗り換えればよさそうに思っても、残念ながら、高いほうの料金が受信装置を持っているというだけで強制徴収され、どちらか一方という選択ができなくなっているのです。
困るのは、料金のことだけではありません。
情報は、細かなどうでもよいことをもっともらしく組み立て、少しずつ模様を変えながら、同じことを何度も見たり聞いたりさせていると、それだけが本当のことのように、受け取る人たちの頭に残ります。
はるかに大きなだいじなことでも、発信を抑えてしまえば視聴者には届きません。
そのことが不法行為であっても、罰則も制裁措置も決めてなければ、発信者側の思いどおりの情報が流し続けられます。
ほうち国家ということばがときどき耳に入りますが、漢字ではどう書くのでしょうか。
"放置国家"では、いつかはどこかの国に乗っ取られ、大変なことになります。