僕の前に道は無い。僕の後ろに道はできる。
高村光太郎さんの「道程」の一節。青年の頃の僕には、なかなか失い難きものだった。
詞の解釈と現実の経験に辻褄をあわせられるのか、不安を感じた。
今になって思うに。後ろを振り返れば。
小さな畦道のようなこの道ながら、僕にも道程とよべるものがある。
さて。問題は先行きだ。
道路のように、見通すことはできない。
まっすぐには来ていないので、多分まっすぐに延びることもないだろう。
これまでも。これからも。
・・・。
例えば僕は商売という種類の仕事に従事している。
まっすぐな道を歩むことが、気に入った道程だとも思わない。
もちろん。まっとうな道を歩む努力はしたいと思う。
多くの人は、見通しのよさを欲しがるけれど、高村さんの道程を本意とすれば、そもそも、無いのである。前に道は。
・・・。
僕は想う。
僕の前に道路(ロード)はない。しかし道筋(ルート)は探す必要がある。と。
僕も一人の労働者。日本国内だけでもざっと6000万人の勤労者が、健康で文化的な生活を求めて日夜職務をこなしている。
得る成果によって、幸せを掴もうとしている。果たして全員に行き渡る幸せはあるのだろうか。
・・・。
僕はイメージする。
ロードの上は楽だ。しかし配分される幸せは少ないに違いない。
独自のルートを行くには困難な開拓が待っている。しかし手に入れる幸せは大きいに違いない。
どうも。道は選ぶものではなく、作り上げるものだ。と「道程」は言っている。
・・・。
僕は気付く。
ルート選びとは、現時点と到達点を目標に大まかな道程をイメージすること。
大事なのはそのアタックすることの意味だ。チョモランマの最高峰を目指すルート選びと、天保山(海抜数メートル)を目指すルートの設定では雲泥の差が出るのだ。道程にも幸せの重さにも。
・・・。
僕は悩む。
人生は重い荷物を背負って険しい山を登るのに似ている。
と誰かさんは言うけれど。
人生はおもりもつけずに、海に潜ってさざえを取るのにも似ていないか。
・・・。
僕は考える。
サッカーでは、体力・技術もさることながら、アイディアの良し悪しが重要だという。
1年先より10年先。強いられるより率先。安住よりも挑戦。既存価値よりもニューアイディア。
ルートを定めた足下のロードの建設のための標語。
もちろん。勝ち組の尻馬に乗るのも悪くは無いだろうけれども、やっぱりルートをアイディアと工夫で走破し、ロードを作るほうが面白そうだ。
・・・。
僕らの前に道は無い。僕らの後ろに道は出来る。
青き日の道程。畦道はやがては農道になるだろうか。
道程は、果たしてどのようなワダチを残すだろうか。