南無煩悩大菩薩

今日是好日也

道程。

2006-07-19 | 有屋無屋の遍路。

僕の前に道は無い。僕の後ろに道はできる。


高村光太郎さんの「道程」の一節。青年の頃の僕には、なかなか失い難きものだった。

詞の解釈と現実の経験に辻褄をあわせられるのか、不安を感じた。

今になって思うに。後ろを振り返れば。
小さな畦道のようなこの道ながら、僕にも道程とよべるものがある。

さて。問題は先行きだ。

道路のように、見通すことはできない。

まっすぐには来ていないので、多分まっすぐに延びることもないだろう。

これまでも。これからも。

・・・。


例えば僕は商売という種類の仕事に従事している。

まっすぐな道を歩むことが、気に入った道程だとも思わない。

もちろん。まっとうな道を歩む努力はしたいと思う。

多くの人は、見通しのよさを欲しがるけれど、高村さんの道程を本意とすれば、そもそも、無いのである。前に道は。

・・・。


僕は想う。

僕の前に道路(ロード)はない。しかし道筋(ルート)は探す必要がある。と。

僕も一人の労働者。日本国内だけでもざっと6000万人の勤労者が、健康で文化的な生活を求めて日夜職務をこなしている。

得る成果によって、幸せを掴もうとしている。果たして全員に行き渡る幸せはあるのだろうか。

・・・。


僕はイメージする。

ロードの上は楽だ。しかし配分される幸せは少ないに違いない。

独自のルートを行くには困難な開拓が待っている。しかし手に入れる幸せは大きいに違いない。

どうも。道は選ぶものではなく、作り上げるものだ。と「道程」は言っている。

・・・。


僕は気付く。

ルート選びとは、現時点と到達点を目標に大まかな道程をイメージすること。

大事なのはそのアタックすることの意味だ。チョモランマの最高峰を目指すルート選びと、天保山(海抜数メートル)を目指すルートの設定では雲泥の差が出るのだ。道程にも幸せの重さにも。

・・・。


僕は悩む。

人生は重い荷物を背負って険しい山を登るのに似ている。

と誰かさんは言うけれど。

人生はおもりもつけずに、海に潜ってさざえを取るのにも似ていないか。

・・・。


僕は考える。

サッカーでは、体力・技術もさることながら、アイディアの良し悪しが重要だという。

1年先より10年先。強いられるより率先。安住よりも挑戦。既存価値よりもニューアイディア。

ルートを定めた足下のロードの建設のための標語。

もちろん。勝ち組の尻馬に乗るのも悪くは無いだろうけれども、やっぱりルートをアイディアと工夫で走破し、ロードを作るほうが面白そうだ。

・・・。



僕らの前に道は無い。僕らの後ろに道は出来る。

青き日の道程。畦道はやがては農道になるだろうか。

道程は、果たしてどのようなワダチを残すだろうか。
コメント (2)
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