南無煩悩大菩薩

今日是好日也

慈愛不足。

2006-11-17 | 有屋無屋の遍路。

あえて言おう。

慈愛が不足しておりますぞ。世のおのおのがた。

私は思う。子供達に大事な何かをはぐくませていないのではないかと。


どんなにいじめられようが、辛かろうが、自愛と他愛があれば、耐えられるものだと思う。

命を絶つ。などということは全くもって慈愛不足が引き起こす突発性無力感が原因じゃて。

無慈悲に他人を傷つけて呵責の念何処吹く風なのも同じ穴から出ておる。

慈愛を受けなかったものは、他人への慈愛も欠乏する。
慈愛はあまねくも広がるが、ことごとくも駆逐されるものやで。

今の子供に問題があらば、問題はその親のみならず、親の親世代に起源があろう。

そしてその大人たちが間違いを見落とさざるを得ないような環境にあった社会構造。

とりあえず、脇に追いやられた感性が何かを狂わせた。

何かの問題が起こる。ということは、必然的な原因が必ずある。

必然的な問題は、その必然を取り除けばやがて改善する。

美しい国日本。への挑戦は、その必然にアプローチしようとする事でなければならない。

近視眼的な社会から、過去未来を見つめる創造的社会への転換点にせねば意味は無いだろう。

今があまりよくないとすれば、改善なる可能性は若い世代。子供の世代にしかない。

今すぐ初めてもその正否は、効果の顕在化は、少なくとも次世代なのだ。


痛ましい事件の抑止力は社会の力だ。

制度や競争や潮流を超えた心の慈愛力の復活がキーだろうと小生は思う。


その最前線は、両親。そしてコミュニティー、そして地域国家。

「親に」なるのは犬猫でも交尾さえすればなれる。
「親と」なるのは献身と忍耐を要求される社会的大事業だ。

「大人」と言い換えてもよい。

それに基づく我々のコミュニティーのあり方が試されている。


慈愛不足のキャリアは、世代を超えて、精神を荒廃させる。

何処かしらで結節点を変えない限り、将来に渡っての再興はおぼつきはしない。

自らや他人に対して無慈悲なことを呵責なく行えるのは、自愛の欠乏。
他愛なき行動は、自分さえも愛せないからでっせ。

自分さえも愛せないのに、国を愛するなぞ出来るわけがない。利用するのが落ち。


「慈愛力」不足こそ諸悪の根源。と小生は考える。

必要なときに精神の栄養分を与えられないと、それを必要としない体質になってしまうであろう。


誤解の無いようにお断りをさせていただくならば。

ててなし子。ははなし子。はどうなるのか?ということであるが、状況によって自然に理解し改善する原初能力が人間にはある。
つまり、てては、ははの役割を開発し、ははは、てての機能を獲得するようになる。
胃を切っても再生するであろうが。
果てはててははなしでも、じじやばばなど周りの器官が寄ってたかって、機能を補完するのだ。
それが、道理であり、摂理。
二つ備わっているものは一つになっても充分に機能拡張によって答える、無くなってしまったものは何かがその代用として機能しはじめるのが自然の成り行き。
なんでも、三行半を突きつけられる恐れのあるものは、バックアップが複数用意されるものだ。

小生が言いたいのは、ちゃんと親と大人と、なっていればよいのである。


世の親御殿。
ぜひとも慈愛をもって子育てをなされよ。
そして外に対しての慈愛を説かれよ。
独りよがりでは決して生きていけない世の社会性を叩き込まれよ。
そして、たまにはおもいっきり自由にさせよ。
怪我をさせよ。自信を持たせよ。慈愛を植えつけよ。


小生が言っているのは、なにも立派な人間になれ。などと出来もしないことを言っているのではない。

社会と言うもののなかで生きていくのであれば、絶対的に必要な想像力がいる。

つまりはだ。悩む。ということ。

子は悩む。親も悩む。大いに悩もうではないか。悩み悩んで選択するから、逃げるようなことはなくなる。

現実の問題に目をそらせることが、他人にどのような迷惑をかけるのかということに発想がいたらない突発的行動を生むのだ。

言葉や態度とは裏腹に、想像しない。悩まない。と言うところに逃げ込む。

教育者や公務に位置する人や政治家だろうが同じ。悩み想像する人はきっと何らかの効力を発揮するだろう。

とどのつまり。全くのアホで無い限り、人は人を簡単に思いやれるものだ。

人を理解できない人が。人を人として扱わないのだ。自分さえもきっともてあましているのだ。

何も難しいことは無い。ちょこっと慈愛の精神に振り返って想像し悩んでみるだけでいい。



それはそうと。この競争社会で何が慈愛じゃい。と言われる御仁もおろう。

慈愛と言う名の羊頭を掲げる競争社会の中ではそうであろう。
ただ施すだけを慈愛と得心してその後を忘れ、その数倍の罪悪を残すことに気付かない社会で競争する事に何の意味がある。

慈愛がかわいそうじゃ。

競争に勝つほどに、人としての感性を売っぱらうことが幸せだと小生は思わない。

もともと人は人として誰でも立派な人である。

すこしでも、より人として次世代に恨まれない何かの選択をする事に悩みたい。教えて欲しい。想像してみたい。
そして、できればその競争に勝ってみたい。

小生はそういう立場に立ってみたいと願うだけなのであります。


少なくとも爺放談を書くことで、自分への戒めにしておるだけでござる。
コメント (2)
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