稀代のリッチマンにして、文化人。
一説に、上野根本中堂の建立請負で得た巨利は50万両と言われ、産を破り、深川に隠棲したときでさえ、小判4万両からを蔵していたという。
お江戸の頃、一両は大体今で6万円程というからには、一仕事300億。老後の蓄え24億。
人のふところを勘定しはじめちゃあ、野暮の下衆のでとなりますがね。
稼ぐもすごいが使うもすごい。その気風がよろしい。
「紀の国屋文左衛門は、材木問屋を家業として、世に聞こえたる富豪なり。活気の者にて、常に、花街、劇場に遊び、任侠を事とし、千金を抛(なげう)ちて心よしとする、ゆえに、時の人の紀文大尽と称して、その名一時に高し、寛永の頃までは、本八丁堀三丁目すべて一町、紀文の居宅なり。」
-上山勘太郎「実伝紀伊国屋文左衛門」-
若い頃はめみも麗しく、諸芸文化にも玄人はだし。
老いては、俳人千山として、悠々自適に65年の一生。
黒潮育ちであったろうか。
紀文。こんな人がおらしゃったというだけで、愉しくなります。