(photo/Victor Hugo On his deathbed, 1885 by Félix Nadar)
ストイックな超人ジャン・ヴァルジャンを生み出したヴィクトル・ユゴーは、超人的な好色の牧神でもあった。
恋するアデールを妻とした初夜に九回交合したと彼自身が述べている。その絶倫の精力は老いても毫も衰えず、最後の年の八十三歳の一月一日から四月五日までに八回、女と交わったという記録がある。
死ぬ数日前にも、文学者協会の委員と料亭で会食した際、彼は居眠りしているように見えたが、やがて彼のために乾杯が行われると、立ち上がって熱弁をふるい、さっきまで居眠りしていなかったことを証明した。
五月十六日に彼は付き添いに言った。
「私は死んだ」
「何をいうのです。ぴんぴんしていらっしゃるじゃあありませんか」
「君がそう思うだけなのさ」
彼は何か異常を感じていたのであろう。十八日に彼は倒れた。ベッドに寝かされたときにユゴーはいった。
「君、死ぬのはつらいね」
「でも、死んだりなさるものですか」
「いや死ぬね」
しばらくして、スペイン語でいった。
「だが、死を大歓迎するよ」
死の床にある間に、彼は、
「ここで夜と昼とが戦っている」
と、つぶやいた。
三十二日朝から臨終の苦しみがはじまった。彼は、砂利に打ち寄せる海の音のようなあえぎをつづけ、午後一時三十七分に息をひきとった。「黒い光が見える」というのが最後の言葉であった。
ロマン・ロランは「老いた神が断末魔の苦しみに喘いでいたとき、凄まじい嵐がパリを襲い、大旋風が巻き起こり、雷が鳴り、雹が降った」と記している。
五月三十一日、偉人廟(パンテオン)に葬られたが、パリ全市をあげて、フランスに新しい神が誕生したことに有頂天になって、さながらバッカスの祭りのようであった。
-山田風太郎「人間臨終図巻」より-
ストイックな超人ジャン・ヴァルジャンを生み出したヴィクトル・ユゴーは、超人的な好色の牧神でもあった。
恋するアデールを妻とした初夜に九回交合したと彼自身が述べている。その絶倫の精力は老いても毫も衰えず、最後の年の八十三歳の一月一日から四月五日までに八回、女と交わったという記録がある。
死ぬ数日前にも、文学者協会の委員と料亭で会食した際、彼は居眠りしているように見えたが、やがて彼のために乾杯が行われると、立ち上がって熱弁をふるい、さっきまで居眠りしていなかったことを証明した。
五月十六日に彼は付き添いに言った。
「私は死んだ」
「何をいうのです。ぴんぴんしていらっしゃるじゃあありませんか」
「君がそう思うだけなのさ」
彼は何か異常を感じていたのであろう。十八日に彼は倒れた。ベッドに寝かされたときにユゴーはいった。
「君、死ぬのはつらいね」
「でも、死んだりなさるものですか」
「いや死ぬね」
しばらくして、スペイン語でいった。
「だが、死を大歓迎するよ」
死の床にある間に、彼は、
「ここで夜と昼とが戦っている」
と、つぶやいた。
三十二日朝から臨終の苦しみがはじまった。彼は、砂利に打ち寄せる海の音のようなあえぎをつづけ、午後一時三十七分に息をひきとった。「黒い光が見える」というのが最後の言葉であった。
ロマン・ロランは「老いた神が断末魔の苦しみに喘いでいたとき、凄まじい嵐がパリを襲い、大旋風が巻き起こり、雷が鳴り、雹が降った」と記している。
五月三十一日、偉人廟(パンテオン)に葬られたが、パリ全市をあげて、フランスに新しい神が誕生したことに有頂天になって、さながらバッカスの祭りのようであった。
-山田風太郎「人間臨終図巻」より-