南無煩悩大菩薩

今日是好日也

老人を育てる

2017-10-08 | 古今北東西南の切抜
(picture/source)

私は老人である。4人も孫がいるので、新米ではあるが立派な爺(じじい)と呼べる。

私の田舎では厄年を過ぎた男を初老と呼ぶ。40になった途端に町役場から「初老の会」のお知らせが届く。呆然とするが、遠からず老人になることを示唆する深い配慮である。悪評だった65歳からの前期高齢者のカテゴリーも同様。年寄には失礼を厭わず自覚させるのが親切というものだ。

老人は気楽と思われているらしいが、そうではない。超うるさい長老が去ってせいせいしたとたんに、厚顔の年寄り予備軍連中が突き上げてくる。因果はめぐる。

反応の鈍さと判断の遅さは老人の武器である。反応の鈍さをひとは重厚と感じる。決断の遅さは深い思慮を漂わせる。情報機器には疎いので余計な情報や雑音がない。だからブレる余地がない。言語の不明瞭さは神秘的ですらある。

重厚な爺は会議の空気などは読まない。熱い議論も平気で鎮静化させる。若手の斬新なアイディアには思わぬ欠陥があるので、冷静なご判断に救われましたと後で感謝されることもたまにはある。老人のKYにもめげない若手の熱意は、よくわからなくとも貴重なので、一転して深く頷く。これも爺のたしなみである。

私のような新米爺は取扱に注意が必要だ。冷たくしすぎると本格的な頑固爺に育つ。過度に甘やかすと勘違いして使えないちょいワル爺になってしまう。尊敬できる老人に仕立てるには最低限の思いやりが必要だ。昔の成功体験の記憶しかないので、昔話は優しく聞き流す配慮も必要とされる。子どもを育てるより骨がおれる。

そうして、正しく育った爺は、満足して職場から巣立つのである。

-切抜/伏木亨「あすへの話題」日経新聞より-
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする