南無煩悩大菩薩

今日是好日也

女の顔

2017-11-23 | 意匠芸術美術音楽
(湖畔/黒田清輝)


その時代によつて多少の相異はあるがクラシックの方では正しい形を美の標準としている。然し私には、このクラシツクの方でいう正しい形は、どうも厳格すぎるような感じがする。
 
即ちこれを日本人に応用すると混血児(あいのこ)になってしまう。嫌いというではないが絵にするには少し申分がある。眼のパツチリした、鼻の高い、所謂世間で云う美人は、どうも固すぎると思う。
 
と云って又、口元に大変愛嬌があるとか、苦(にがみ)ばしっているとかいうような、特に表情の著しい顔は好かない。一口に云うと、薄ぼんやりした顔が好きです。
 
目の細い、生際(はえぎわ)や眉がキツパリと塗ったように濃い顔はいけない。鼻筋の通りすぎたのも却ってよくない。中肉中背ということも勿論程度問題ではあるが、どちらかといえば、中背は少し高い位、中肉は少し優形の方がいいと思う。つまりスラツとした姿の美しい女がいい。
 
この絵は、ルネツサンス時代のフィレンツェの絵画によくあるやうな上品なスツキリとした優美――意気でない、野暮な優しさを描こうと思つて、頸なぞも思い切って長くし、髪なども態(わざと)或る時代を現す一定の型に結ばさないで、顔の輪郭なども出来るだけ自分の考えているように直したが、どうも十分には私の心持ちが現れなかった。
 
然し嬉しいとか、悲しいとかの表情のない処までは行ったと思う。難を云へば、顔が一体に行き詰っているかと思う。優しみという点も欠けている。品が十分でない。私としては、モウ少し間の抜けた上品な処がほしかった。

一体に東京の女は顎が短くっていけない。尤もあまり長過ぎても困るが、どちらかと云えば少し長い位なのがいい。京都には、態と表情を殺しているような女がよくあるが、あれは中々いいと思う。

-黒田清輝/「画並談」より-



(Sandro Botticelli/Birth of Venus-detail)
コメント
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