南無煩悩大菩薩

今日是好日也

サルトルと織田作之助と坂口安吾

2018-04-21 | 古今北東西南の切抜
(quote/original unknown)

私はサルトルについてはよく知らない。

実存は無動機、不合理、醜怪なものだと云う。

人間はかかる一つの実存として漂い流れ、不安恐怖の深淵にあると云う。

「我々は機械的人間でもなければ、悪魔に憑かれたものでもない。もっと悪いことには、我々は自由なのである」

実際、自由という奴は重苦しい負担だ、行為の自由という奴を正視すれば、人間はその汚さにあいそのつきるのは当然だ。

ここまでは万人の思想だけれども、サルトルは救いを「無」にもとめる。これはサルトルの賭だ。こういう思想は思想自体が賭博なので、彼自身の一生をはる。サルトルの魅力は思想自体の賭博性にもあるのだと私は思う。
 
サルトルは小説が巧い。この小説を彼の哲学の解説と見るのは当らない。解説的な低さはない。彼の思想は肉体化され、小説自体、理論と離れて実在しているものだ。

「水いらず」のリュリュの亭主は不能者だ。リュリュは喧嘩別れして他の男とホテルに泊るが、男が技巧が達者でリュリュはボッとなってしまうけれども、達者の男はいや、ボッとなるのも嫌い、リュリュは不能者の亭主が好きなのである。そして一日ホテルへ泊っただけで、亭主のところへ帰ってしまう。

この小説には倫理などは一句も説かれていない。ただ肉体が考え、肉体が語っているのである。リュリュの肉体が不能者の肉体を変な風に愛している。その肉体自体の言葉が語られている。
 
我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考えてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、そういう立場がなければならぬことを、人々は忘れていた。知らなかった。考えてみることもなかったのだ。
 
サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、ただ肉体自体の思考のみを語ろうとしていることは、一見、理知がないようだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。
 
私は今までサルトルは知らなかったが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考えていた。それは僕だけではないようだ。洋の東西を問わず、大体人間の正体というもの、モラルというものを肉体自体の思考から探しださねばならぬということが、期せずして起ったのではないかと思う。
 
織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体ということを狙っているように思われる。だから、そこにはモラルがない。一見、知性がない。モラルというものは、この後に来なければならないのだから、それ自体にモラルがないのは当然で、背徳だの、悪徳だのという自意識もいらない。

思考する肉体自体に、そういうものはないからだ。一見知性的でないということほど、この場合、知的な意味はない。知性の後のものだから。

これからの文学が、思考する肉体自体の言葉の発見にかかっているということ、この真実の発見によって始めて新たな、真実なモラルがありうることを私は確信するのであるが、この道は安易であってはならぬ。織田君、安易であってはならぬ。

-坂口安吾「肉体自体が思考する」より
コメント
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