知覚には、常に存在するものを背景のノイズとして処理し、弱めると言う傾向がある。
だから、自分の体臭は感じないし、衣服や眼鏡が肌に触れていることも忘れている。
考え直してみよう、というような感覚が起こるのは、それに値する知覚を呼び覚ますなんらかの事件が起こっている。
常に与えられていることで忘れていたものが、今までは何も感じなかったものが、急に存在感を持って迫ってくる時がある。
感じなくなっていることで、そのありがたみを忘れるという癖を我々は持っている。
今までやってこれたのは、わたしが ということではなく、その人たちがいてくれたおかげだ。
先日のミーティングのあと、つまみのきゅうりを齧りながら、ふと浮かんだことが、今朝もまた浮かんだ。
どうしてだろう、どんな背景があるのか、未だにつかまえられない。
なんで、だいじょうぶだよ という意味が、「屁の河童」なのだろうか。
七賢のひとり、劉伶(りゅうれい)という人は「天地をわが家とし、家を衣服とする」うらやましいほど奔放な生き方をした。
酒もかなりなもので、「酒は一度に一石を呑み、五斗を迎え酒とする」 と詠まれている。
李白の「一斗詩百編」もすごいが、それよりもすこぶるうわてだ。
山の内の容堂公も、「鯨海酔候」といわれ、鯨が海の水を飲むように酒を呑んだ。
いずれおとらぬ天下の大酒呑みを遠望しつつ呑むと、自分も大きくなったような気がする。
渋く呑むのもいいし、たおやかに呑むのももちろんいいが、豪快に呑むことは、かなり気持ちのよいものだ。次の日のことは別にして。
風呂敷は広げられるだけ広げたほうが包み込むものが小さく感じられるというふうに呑んだほうがよろしかろうと思う。
身分に順があるなんてことは、明治のお役人が宣伝したのよ
だまされちゃいけねぇ、悪しき前例を破ったなんていう大儀がなけりゃ吾身の正当性がうしなわれちまうからさ
身分の順であれこれ争ってるのは、お侍の中だけのはなしだろ
庶民は、なんやそれってなもんよ
だいたい貴いの賎しいのなんてものはねぇんだ、それを強欲に自分の都合のいいようにしちまうから、暴動なんてものが起こるのさ
そうでなきゃお江戸は400年ももつかってんだ。
あたかも自然が自己に干渉するものや反対するものをことごとく自己の目的にかなうように形成し、自己の一部となしてしまうがごとく、理性的動物もその目的とするところがなんであろうと、あらゆる障碍物を自己の素材としてそのために有効に活用することができる。-マルクス・アウレーリウス「自省録」-
わにずきのひともきらいなひとも
だちょうのすききらいにかかわらず
食えば身になる骨になる。
思想家ヒュームはこういっている、
「自分の指にひっかき傷ができるよりも、全世界が破壊されるほうを選ぶのは、理性と矛盾しない。」
どういう理性が働いたのかは知らないが、みんな死ねばいいといって、人々を道連れにバスを横転させた男がいたようだ。
人に迷惑をかけてはいけない、ということを守り治すのは、理性ではなく感情の話なのかもしれない。
話は変わるが、人に疲れた人向けに人から安らぎを得ようと人が企画する癒しの会などがあったりする。
僕にはそれが癒しになるのかどうかがわからない。