昨日の昼前、宿舎に帰ってきた。
陳さんがルームメイトから借りてくれたバックパックの中身を出して、陳さんに返し、二人で本部キャンパス横の「蘭州面条」の看板が出ているイスラム教徒の店で昼ご飯を食べて別れた。
「明日、旅費の明細を計算します。」
とか言っていたが、まだウンともスンとも言って来ない。たぶん今頃は疲れて弱い胃腸をこわしたりしているかも知れない。私も昨夜はこのブログを書き始めるや急に腹痛に襲われ、書くのを断念して正露丸飲んで寝た。
それにしてもこのべたつく暑さは、さすが南昌だ。今日ベランダの工事監督で部屋に来た管理人のミズ劉が「三階は暑い。一階は涼しいのに。」というので、「四月、五月の一階はめちゃくちゃ湿気でたまらんかった。」と言いたくて「四月和五月、102房間里很湿了」の「湿了」を「SHI LE(シーラ)」と言うと、「SI LE(スーラ)」と訂正された。江西省では、SHI(シー)をSI(スー)と言う。だから十快(元)をSI KUAIと言われて(四元か!)小躍りしたことが何度もある。四声で聞き分けたらいいのだが、それができれば苦労しない…。
さて、私としては破格の長さのこの旅行、この旅はざっくり言って試練の旅であった。ガイドの陳さんにしても、爪に火を灯すようにして暮らしている学生が初めての飛行機、初めて行く場所への長旅、初めての引率と初めてづくしで、しかも引率相手は老師二人とあれば、大変でないはずがない。その大変さはこちらにも当然影響してくる。時々自分でも(なんか指導教官ぽい発言だな)と奇妙な気分を味わった。陳さんももう一人の随行者岡田先生(この人は、無料ガイド付きの旅行という位置づけで、すっきり楽しめたのではないだろうか)に、
「田中先生に『プロだったらとっくにクビです!』と言われました。」
とか愚痴って慰めてもらっていた。
さまざまなことがあった。それはこれから追々書くとして、最後の日の出来事が決定的だった。
朝8時半過ぎに30分遅れて成都を発ち南昌へ向かう飛行機でのことだ。
陳さんは、機内食として出たおかゆ、ザーサイ、フルーツ、アンパンなどを平らげた後、プラスチックのスプーンとフォークを丁寧にティッシュ(実はトイレットペーパー)で拭いて鞄に仕舞った。それからお粥のカバーとして使われていたアルミホイルも同様に、丁寧に拭いて鞄に入れ、言った。
「ぼくは一生の間に飛行機に乗れるなんて思ってもいませんでしたから、このフォークとスプーンとアルミは初めて飛行機に乗った記念にずっととっておきます。」
この言葉で、(7泊8日の試練の旅は成功裏に締めくくられた)と思った。彼にガイド料を払わない代わりに、彼の交通費、宿泊費、各種施設への入場料等は一切私が負担した。食費だけは彼の自己負担とした。彼が当初申告した予算を5倍も6倍もオーバーしたことに対して
「こういうのをどんぶり勘定と言うのです!」
とプリプリ怒ったことも、早や思い出の領域になった。代わりに、陳さんが何度も練習しただろうパンダ繁育基地、三星堆博物館、錦里anicient street、九寨溝などの説明や、傘や鞄を持ってくれたり、悪天候で何回も予約変更手続きをしたりしていた姿が走馬灯のように・・・、というほど古い記憶でもないけど浮かんできた。たとえ、100ほどのミスをしたとしても彼は確かにベストを尽くしたのだ。
陳さんがルームメイトから借りてくれたバックパックの中身を出して、陳さんに返し、二人で本部キャンパス横の「蘭州面条」の看板が出ているイスラム教徒の店で昼ご飯を食べて別れた。
「明日、旅費の明細を計算します。」
とか言っていたが、まだウンともスンとも言って来ない。たぶん今頃は疲れて弱い胃腸をこわしたりしているかも知れない。私も昨夜はこのブログを書き始めるや急に腹痛に襲われ、書くのを断念して正露丸飲んで寝た。
それにしてもこのべたつく暑さは、さすが南昌だ。今日ベランダの工事監督で部屋に来た管理人のミズ劉が「三階は暑い。一階は涼しいのに。」というので、「四月、五月の一階はめちゃくちゃ湿気でたまらんかった。」と言いたくて「四月和五月、102房間里很湿了」の「湿了」を「SHI LE(シーラ)」と言うと、「SI LE(スーラ)」と訂正された。江西省では、SHI(シー)をSI(スー)と言う。だから十快(元)をSI KUAIと言われて(四元か!)小躍りしたことが何度もある。四声で聞き分けたらいいのだが、それができれば苦労しない…。
さて、私としては破格の長さのこの旅行、この旅はざっくり言って試練の旅であった。ガイドの陳さんにしても、爪に火を灯すようにして暮らしている学生が初めての飛行機、初めて行く場所への長旅、初めての引率と初めてづくしで、しかも引率相手は老師二人とあれば、大変でないはずがない。その大変さはこちらにも当然影響してくる。時々自分でも(なんか指導教官ぽい発言だな)と奇妙な気分を味わった。陳さんももう一人の随行者岡田先生(この人は、無料ガイド付きの旅行という位置づけで、すっきり楽しめたのではないだろうか)に、
「田中先生に『プロだったらとっくにクビです!』と言われました。」
とか愚痴って慰めてもらっていた。
さまざまなことがあった。それはこれから追々書くとして、最後の日の出来事が決定的だった。
朝8時半過ぎに30分遅れて成都を発ち南昌へ向かう飛行機でのことだ。
陳さんは、機内食として出たおかゆ、ザーサイ、フルーツ、アンパンなどを平らげた後、プラスチックのスプーンとフォークを丁寧にティッシュ(実はトイレットペーパー)で拭いて鞄に仕舞った。それからお粥のカバーとして使われていたアルミホイルも同様に、丁寧に拭いて鞄に入れ、言った。
「ぼくは一生の間に飛行機に乗れるなんて思ってもいませんでしたから、このフォークとスプーンとアルミは初めて飛行機に乗った記念にずっととっておきます。」
この言葉で、(7泊8日の試練の旅は成功裏に締めくくられた)と思った。彼にガイド料を払わない代わりに、彼の交通費、宿泊費、各種施設への入場料等は一切私が負担した。食費だけは彼の自己負担とした。彼が当初申告した予算を5倍も6倍もオーバーしたことに対して
「こういうのをどんぶり勘定と言うのです!」
とプリプリ怒ったことも、早や思い出の領域になった。代わりに、陳さんが何度も練習しただろうパンダ繁育基地、三星堆博物館、錦里anicient street、九寨溝などの説明や、傘や鞄を持ってくれたり、悪天候で何回も予約変更手続きをしたりしていた姿が走馬灯のように・・・、というほど古い記憶でもないけど浮かんできた。たとえ、100ほどのミスをしたとしても彼は確かにベストを尽くしたのだ。