毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「中国の大学生の政治意識」 2013年2月10日(日) No.561

2013-02-10 07:48:02 | 中国事情
前のブログでは日本の歴史的・政治的責任について果敢に表現した王君のことを書いたが、
実は彼のような子は少ない。
日本語学科の学生たちを見ていると、政治に対する強い関心を表す子は多くない。
進んで政治的話題を持ち出す子は皆無と言っていいと思う。
「ほんの一部の学生以外は政治に関心を持っていませんよ。」
と言う学生もいるほどだ。
日本の若者達も無関心なことについては負けていないだろうが、
双方の社会的背景はかなり異なる。
今の大学生は1989年天安門事件のときは、生まれたばかりかまだ生まれていないかぐらいの世代―バーリンホウ(80後)・ジウリンホウ(90後)だ。
直接、政治的行動をした経験と言えば、中国共産党の子ども組織に参加していた子だけだろう。今でもキャンパスの中で首に赤いハンカチを巻いて歩いている小学生をチラホラ見かける(なぜ大学に小学生が?と不思議に思うかもしれない。中国の多くの大学キャンパスは学生寮だけでなく職員宿舎、スーパー、市場もあり、職員家族も何千人?何万人?も住んでいる。キャンパスのあちこちを老夫婦が散歩したり、中高年グループがダンスをしていたりするのは至って日常的な風景だ)。

中国の歴史・政治教育は日本の比ではなく、「明日の中国国家を作っていくのが若者である君たちだ。若者は国の宝物だ。」と言われて育ってきている。
にもかかわらず、なぜそんなに政治に関心を寄せないのだろう。
私は、彼女ら・彼らの親世代の「文化大革命体験」が影響していると思う。
親世代の人々の心には、要らんことを言ったら逮捕されるという恐怖感が沁みついており、
学生の中には、子どもの頃何気なく政治家の名前を口にしたとき、
「そんなこと言うんじゃない。逮捕されるよ!」
と、親に手で口をふさがれた体験を話してくれた子もいる。
「政治なんかに参加して何の得になりますか?」
と真面目な顔で言う人たちもいる。
それらの人々は、まず自分と家族の幸せが大切で、国家のことを考えている余裕はないと言うのだ。「衣食足りて礼節を知る」ということなんだろうか。
しかし、衣食足りても自分の幸せのみを追求する人も多いのだ(これは日本でも同様)。

最後に一つ心に残っている例を挙げよう。
昨年の脱原発首相官邸包囲デモの人々の声を野田首相が、
「大きい音がするね。」
と言ったと報道され、それに対して多くの国民たちが
「『音』だと!何を言っているんだ。人々の『声』じゃないか。失礼な!」
と怒ったという話をある人にしたとき、
「日本はそう言えるのが本当にいいですね。」
という返事がかえってきた。
中国の庶民には国家を批判する言論の自由が制限されている。
若者たちに政治意識がないとは断言できない。
政治的意見を表現する自由が制限されているので、
関心を向けても仕方がないと諦めている傾向があるとは言えるだろう。
日本の若者はどうだろう。
コメント
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