与勝高校3年 知念捷さんが6月23日沖縄全戦没者追悼式で自作の詩を読む。
『みるく世がやゆら』という詩を。
琉球語のこの言葉、日本語の意味が書かれていない。
どんな意味かは想像するしかない。
琉球新報は6月13日の第一面トップにこの詩を掲載した。
本土の全国紙は、せめて、6月23日当日には
日本政府によって強いられてきた沖縄の歴史と現実に切り込む記事を
第一面に載せて欲しい。
琉球新報社会面には入院中の山城博治さんが島袋文子さんに当てた手紙が
早朝からの座り込みが続くキャンプシュワブゲート前テントで読まれ、
「特段の副作用もなく予定通り療養生活を送っている」との言葉に
拍手が沸き起こったことも載っていた。
毎日、毎日引き抜かれ、また座り込みにもどる人たちは、
ヒロジさんが健康になって帰ってくるのをどれほど待っていることか。
今日も宿に戻ったお客の若い女性が、
「機動隊と海保に二重にやられてあざができちゃった」
と二の腕を見せてくれた。
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『みるく世(ゆ)がやゆら』 知念 捷
みるく世がやゆら
平和を願った 古の琉球人が詠んだ琉歌が わたしへ訴える
「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世(ゆ)ややがて
嘆(なじ)くなよ臣下(しんか) 命(ぬち)ど宝(たから)」
70年前のあの日と同じように
今年もまたせみの鳴き声が梅雨の終わりを告げる
70年目の慰霊の日
大地の恵みを受け 大きく育ったクワディーサーの木々の間を
夏至南風(かーちーべー)の 湿った潮風が吹き抜ける
せみの声は微かに 風の中へと消えて行く
クワディーサーの木々に触れ せみの声に耳を澄ます
「今は平和でしょうか」と 私は風に問う
花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉
戦後70年 再婚をせず戦争未亡人として生き抜いた祖父の姉
九十歳を超え 彼女の体は折れ曲がり ベッドへと横臥する
1945年 沖縄戦 彼女は愛する夫を失った
一人 妻と乳飲み子を残し 22歳の若い死
南部の戦跡へと 礎へと
夫の足跡を 夫のぬくもりを 求め探し回った
彼女のもとには 戦死を報せる紙一枚
亀甲墓に納められた骨壺には 彼女が拾った小さな石
戦後70年を前にして 彼女は認知症を患った
愛する夫のことを 若い夫婦の幸せを奪った あの戦争を
すべての記憶が 漆黒の闇へと消えゆくのを前にして 彼女は歌う
愛する夫と戦争の記憶を呼び止めるかのように
あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしていますと
軍人節の歌に込め 何十回 何百回と
しだいに途切れ途切れになる 彼女の歌声
無慈悲にも自然の摂理は 彼女の記憶を風の中へと消していく
70年の時を経て 彼女の哀しみが 刻まれた頬を涙がつたう
蒼天に飛び立つ鳩を 平和の象徴と言うのなら
彼女が戦争の惨めさと戦争の風化の現状を 私へ物語る
みるく世がやゆら
彼女の夫の名が 二十四万もの犠牲者の名が
刻まれた礎に 私は問う
みるく世がやゆら
頭上を飛び交う戦闘機 クワディーサーの葉のたゆたい
六月二十三日の世界に 私は問う
みるく世がやゆら
戦争の恐ろしさを知らぬ私に 私は問う
気が重い 一層 戦争のことは風に流してしまいたい
しかし忘れてはならぬ 彼女の記憶を 戦争の惨めさを
伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを
みるく世がやゆら
せみよ 大きく鳴け 思うがままに
クワディーサーよ 大きく育て 燦々と注ぐ光を浴びて
古のあの琉歌(うた)よ 時を超え今 世界中を駆け巡れ
今が平和で これからも平和であり続けるために
みるく世がやゆら
潮風に吹かれ 私は彼女の記憶を心に留める
みるく世の素晴らしさを 未来へと繋ぐ