毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「戦世からアメリカ世、そして復帰後も」2015年6月24日(水)No.1388

2015-06-24 23:13:20 | 反戦平和

今日は山城博治さんがゲート前のテントに来たという嬉しい知らせを

座り込み参加の宿泊客から教えてもらいました。

さて、昨日の続きです。

沖縄の歴史になってしまったあの事件、この事件をきちんと再確認したいと思い、

琉球新報の解説をここに転載させていただきます。

 

1沖縄戦(1945年)

太平洋戦争末期の1945年、米軍が沖縄本島や周辺離島に上陸し、

地上戦を繰り広げた。

首里に司令部を置いた日本軍(第32軍)とは嘉数高原などで激戦となった。

持久戦を基本方針とした第32軍は、本土決戦に備えた時間稼ぎの捨て石作戦と位置付けた。

5月末に首里は制圧され、6月22日(23日説あり)までに牛島満司令官が自決をして組織的な戦闘が終わった。

掃討戦を続けた米軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言、降伏調印式は9月7日だった。

戦没者は約20万人。うち18万8千人余が日本側で、民間人は9万4千人に上った。

 

2島ぐるみ土地闘争(1956年~)

米軍は沖縄戦終了後、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効まで

土地の無償使用を続けた。

同年11月、米軍は軍用地の賃貸契約方法や使用料を決めた布令を交付したが、

ほとんどの地主が応じなかったため「土地収用令」を公布。

武装兵が「銃剣とブルドーザー」で土地を奪った。


3宮森小ジェット機墜落事故(1959年)

1959 Kadena Air Base F-100 crash.jpg

1959年6月30日午前10時30分過ぎ、石川市(現うるま市石川)の

市立宮森小学校に米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が墜落し炎上した。

同校児童や地域住民18人が犠牲になり、

200人以上が負傷した。

同機は飛行中にエンジンが爆発して石川方面へ墜落したが、

パイロットはパラシュートで脱出して無事だった。

墜落により、同校教室、民家17棟、公民館が全焼し、

民家8棟と同校の2教室が半焼した。

当時はミルク給食の時間で、学校は一瞬で地獄絵図と化した。

米軍は事故発生直後から現場を封鎖し、

我が子を助けようと駆け付けた家族の立ち入りも禁止した。


4日本復帰(1972年)

米施政権下だった沖縄は1972年5月15日、日本に返還された。

1945年の沖縄戦終結と同時に始まった「アメリカ世」は27年で幕を閉じた。

復帰に先立つ68年に沖縄初の主席選挙が実施され、在沖米軍基地の

「即時・無条件・全面返還」を掲げた屋良朝苗が当選した。

日米は69年の共同宣言で「核抜き本土並み、72年返還」を謳ったが、

日米はその後の返還交渉で沖縄の米軍基地存続を認めた。

沖縄の願いを反映しない返還協定のやり直しを求める反対運動が起きたが、

日米両政府は返還手続きを進めた。


5那覇市小禄の不発弾爆発事故(1974年)

那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばで1974年3月2日、

下水道工事で打ち込んだ鉄パイルが、日本軍の使用した土中の不発弾に触れて

爆発した。

3歳の女児や作業員ら4人が死亡、34人が重軽傷を負った。

園児らはひな祭りの最中だった。

爆発地点は土砂がえぐられて大きな穴が開き、

家屋倒壊が80戸、車両被害が41台だった。

県によると、この事故以後も県内で不発弾事故で

3人(米軍兵を含む)が死亡し、24人が負傷した。

残された不発弾は約2050トンと推定されている。

2014年度の不発弾処理は631件、18.4トンだった。


6米兵少女乱暴事件県民大会(1995年)

1995年9月に本当北部で米兵3人による少女乱暴事件が発生した。

容疑者の身柄引き渡しを拒否した米軍の対応に県民の怒りが頂点に達し、

基地負担軽減や日米地位協定改定を求める声が一気に高まった。

同年10月21日には宜野湾海浜公園で「米軍人による事件を糾弾し

日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれ、

8万5千人(主催者発表)が参加した。

日米合同委員会は大会後、協定改定はしないが、

殺人など重大犯罪の場合は起訴前に身柄引き渡しを行うことで合意。

翌96年には米軍普天間飛行場の全面返還合意に至った。


7沖国大ヘリ墜落事故(2004年)

 

2004年8月13日、宜野湾市宜野湾の沖縄国際大学構内に、

米軍普天間飛行場所属のCH53D輸送ヘリ一機が墜落した。

衝突した同大1号館の壁面は機体の炎上により焼け焦げ、

周辺の住宅街には広範囲に渡ってヘリの部品が飛び散った。

学生は付近住民には奇跡的にけが人が出なかったが、

ヘリの乗員が負傷した。

1972年の日本復帰以降、人口が集中する米軍航空機墜落事故は初めてだった。

市街地のど真ん中を占め「世界一危険」と言われる普天間飛行場の

危うさが改めて浮き彫りになった。

―――――――――琉球新報6/23より(写真はネットのあちこちから借りました)

安倍首相は昨日の慰霊の日の式典で

「沖縄の方々には長年に渡って多大な負担と犠牲を強いてきた云々」

という内容の言葉を発しました。

「そして、これからも犠牲になり続けてくださいね」と言わんばかりの安倍首相。

そんな安倍に一票を投じる行為は他の国民の大迷惑です。

 

 

 

コメント (2)
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