6年間中国で働いていても、
今まで学生の保護者と話したり、子供のころの話を聞く機会はありませんでしたが、
今回の旅では余立君さんのお母さんである宋老師のお話も聞けて、
普通の観光旅行ではあり得ない貴重な体験ができました。
宋老師には4年ほど前(2013年1月)、
広州に立ち寄ったときに家に泊めていただいたことがあります。
(教え子、劉思ていさんにホテル予約をお願いしていたのが大学院入試日と重なって、
どこも満員なので劉さんの大学寮に泊めてもらっていたら、
宋老師が気の毒に思って自宅の一室を提供してくださったのでした)。
日本人と話したこともない宋老師が、
私を数日間家に泊めた時どんな気持ちだったでしょう。
そんなことも含めて生い立ちからお聞きしました。
ーーー宋老師のお話ーーー
私は1962年、江西省撫州市に属する県で生まれました。
祖父は浙江省の共産党地下党のトップでした。
その後、浙江省の住処がダム建設の対象地になったため
江西省撫州市に移住した祖父は、
共産党軍指令官の地位につくよう党から言われましたが、
辞退して農民として生きることを選択しました。
だから、文化大革命の時には何の心配もなく過ごしました。
私は幼い頃、祖父などから日本・アメリカとの次の戦争に備え、
野外で生き延びるための特訓を兄弟とともに受けていました。
野草はもちろん、蛇、ねずみ、そしてゴキブリまでも食べさせられたものです。
テレビなどない時代でしたから、
夕食後は庭に出て、祖父母などから日本軍の残虐な行いを話されるのが
いつもの習慣でした。当時は皆、日本への憎しみ一色に染まっていました。
家の中だけでなく、町中の壁、公共トイレの中まで、
「打倒美日帝国主義」、「中国共産党万歳」のスローガンが貼られていました。
テレビは1980年代に普及したので、
1972年の中日国交正常化も知りませんでした。
そういうわけで、娘の余立君が江西財経大学で日本語学科を選択したとき、
私は全く理解することができませんでした。
しかし、娘が選択したことなのだから尊重してあげようと決意しました。
なので、父から何度も、
「大学をやめさせろ!」と怒鳴られましたが、
娘にプレッシャーをかけないように、一切そのことを娘に言いませんでした。
大学2年になって、娘が家に日本人の先生を連れてきたときは、
複雑な気持ちで、緊張もしました。
しかし、娘の先生なのだから、精一杯もてなそうと思いました。
娘から聞いた日本の教育方法や先生を見て、
日本人の素養はすばらしいと思いました。
中国人が元々持っていた素養は、戦争や文化大革命で失われてしまいました。
立て直すのは、何世代もかかるでしょう。
失う時は一瞬で何もかも失ってしまうものなのです。
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宋老師のお話を聞いて、戦争の傷も同じだと思いました。
日本人が忘れたくて、事実、どんどん忘れてしまっている侵略戦争の歴史を、
中国人はずっと胸の痛みとして抱えています。
その傷の痛みは日本側が一貫した平和外交姿勢を示し続けることで
少しずつ薄らいでいくのではないか、
そうあってほしいと、私は心から願います。