TOEICテストの数日前からネットニュースもスル―して、
CDの内容を聞き分ける練習と文法問題をストップ・ウォッチで測って解くことに専念し、
テスト終了後、ニュースをまとめ見した。
昨今の日本のニュースはまとめ見できるような軽いものではないにもかかわらず。
で、あまりのことばかりがズラズラと並んでいるのを受け入れられなくなってしまった。
簡単に言えば、心が傷ついてしまった。
私は窮地を脱するために何か別のものを読むことにした。
困ったときの加藤周一だ。
アマゾンの古本で買った「続・羊の歌」を手に取った。
数ページ読むと、戦後すぐの日本(東京)を描写してあるページに至る。
3・11以降の日本と戦後、焼け跡の日本の類似性に言及する人がいるが、
加藤さんの見ていた戦後の日本の人々は、今の日本人とどうつながっているのだろう。
戦後の焼け跡で衣食住のうち何一つとして充足していなかった、
当時の日本人の元気なことといったらどうだ。
『〈戦後の虚脱状態〉という文句も使われていた。 しかし私が乗合の窓から眺めた東京の市民の表情は〈虚脱状態〉で途方にくれているどころか、むしろ不屈の生活力に溢れていた。 〈虚脱〉していたのは、戦争を賛美した言論界の指導者たちであったかも知れないが、闇屋でも、ヤミ米でもうけていた農家の人々でもなかったろう。 日本の人民がみずから発明し、好んで用いていたのは〈ざんげ〉でも〈虚脱〉でもなくて、〈スト〉という言葉であった。 この語には二義があり、それぞれ英語の《ストライク》と《ストリップ・ティーズ》に応じる。 〈ゼネスト〉というときには前者で、労働者の総罷業を意味し、〈ゼンスト〉というときには後者で、素裸になることを意味した。 〈スト〉の一語能く、戦う人民と享楽する人民、その組織と個人の全体を蔽って、戦後の一時期を象徴していたのである。』
これを読むと、私は江戸時代の裏店の庶民の姿を想起する。
けっして今の日本人ではない。
また、加藤青年の目が捉えた風景に、日本人のメンタリティを、と言うか、
メンタリティのなさを明示している場面がある。
『私は焼け跡を疾駆する乗合自動車を好んだが、そこでは見られぬ光景を、電車の中で見ることもあった。 汚れた白衣を着た傷病兵が、どこかの駅から乗り込んできて、社内を一回りすると、次の駅で隣の車に乗る。 電車が次の駅に着くまでの短い間、乗客は見て見ぬふりをして、顔を車外に向けたり、読みかけの新聞に没頭して気のつかぬ風をよそおったりしている……。 傷病兵が差し出す箱に、小銭を入れる者はほとんど一人もいないという光景。 それは車中の人々が、あたかも古傷を想い出させられることを厭ってでもいるかのようであった。 あたかもあの真珠湾の日に歓呼して迎えたのが〈聖戦〉ではなくて、何かの間違いででもあったかのように。』
この責任を取らない態度は一貫して今の多くの日本人も引き継いでいる。
と私は思う。
南京陥落のニュースを聞いて喜びいさんで難波に繰り出した、
大阪の人々の写真を見たことがある。
その人たちは、南京大虐殺についてきちんと学ぶ責任がある。
にもかかわらず、大抵の人はそうしない。
お国のために戦い、傷ついて帰ってきた傷病兵は死ななければただの厄介者だ。
同じように戦争に駆り出された者たちなのに、死ねば「英霊」、
生死の境をかいくぐって戻ってくれば「厄介者」と疎まれる。
なんなんだ、日本人は。
自分のやったことの結果の責任を取らない超無責任野郎がウヨウヨしているじゃないか。
そういうのを烏合の衆と呼ぶと言っても、私の心は納得しない。
「だって私ら、烏合の衆やから~」とか、居直られても嫌なんですよ、わたしは。
ひっつくなよ、烏合の衆。自分の脳みそで考え、自分の足で立って見ろっての。
とか、本を読みながら怒っているうちに、次第に気を取り直すことができた。
取りあえず、ヨカッタ…かな。
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