今年6月に江西財経大学日本語学科を卒業したばかりの夏斐さんが、
就職した会社から早速日本に研修命令が出て、7月、日本の東京にやってきた。
生まれて初めて見た日本は、夏斐さんの目にどう映ったか、
メールで知らせてくれたのでご紹介しよう。
日本に住んでいる者にとっては当然と思えることが
外国人にとっては往々にしてそうではないことに気づかされる。
世界は広い。生活の条件(様態)も様々だ。
そして、そのこと自体に優劣はないと考えるべきだ。
自文化中心主義は戒めたい。
夏斐さんは、心を開いて日本を味わってくれたようだ。
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↓日本で初めての夕食。
本物の日本体験が終わりました。
日程は、7月20日武漢から上海まで、上海で一泊しました。
7月21日に上海から全日本空輸株式会社の飛行機で成田空港に到着しました。
7月22日から7月30日まで(週末以外)神奈川県海老名市のホテルに泊まっていました。
7月31日に成田空港から上海まで帰国しました。
今回の研修は、先輩の出産期が近づいており、
会社も若者の新人育成を願っているので、
通訳者として貴重な機会を得たのです。
研修の目的はうちの会社の親会社のA精工(株)から、
技術と管理についての知識・経験を学ぶことです。
初めて日本に到着したとき、親会社の担当者が空港にお迎えに来てくださり、
その足で海老名のホテルに向かいました。
途中でいろいろなことを交流しましたが、
緊張もしていたし、先生より担当者の方が早口で、
本当に聞き慣れませんでした。
私は次の日の会議が非常に心配になりました。
仕事の始めは順調でしたが、
支社の所長を紹介していて感じたのは、
日本語を中国語に訳すことは易しいですが、その逆は本当に大変だということです。
仕事は生産現場での見学が多いので、少しリラックスしました。
「知識はここぞという時にこそ、初めて足りないと悔やむのだ」という諺があります。
日本に居たときはずっと
(大学でもっと努力していれば、こんなに恥ずかしい思いをしないでも済んだかも知れない)
という気持ちでいっぱいでした。
親会社の営業部には中国人の社員がおり、研修のときはずっと手伝ってくれて、
非常に感激しました。
自分も毎日、何時になっても、必ずその日の専門用語などのことを復習してから寝ました。
これからも一生懸命勉強していきます。
今度の研修はいろいろ痛手を受けて、いい勉強になりました。
日本のいいこともいろいろ自ら体験しました。
一つは、日本人の男性は本当にやさしくて紳士だと思います。
(自動車産業なので、男性が多いです)
いつも礼儀正しくて、新人のことを理解して、
いろいろ助けてくださったことを心に銘記しています。
二つ目は、日本人はいつもほかの人に迷惑をかけないという気持ちを持っていることです。
例えば、デパートで後ろに人がいるのに気づかないで、狭い通路に長い間立っていても、
後ろの人はずっと黙って待っていることは本当に気に入っています。
三つ目は、日本の環境は本当にきれいだということです。
仕事に関係あるところは倉庫まできれいに片付けて、
日常生活の中で見るところは全部きれいだと思います。
道もきれいで、悪い道はほとんどないです。
どこのトイレもきれいで、それも最高です。
四つ目は、日本の日常生活を網羅するものは全部安全です。
女性の化粧品も薬と同じく検査した後に売られているし、
食品も添加剤無し、賞味期限が短くて、水道の水もきれいです。
いろいろ体験して、最後のときは本気で帰りたくなかったです。
帰りたくなくても、帰らなければならないですね。
↓土曜日、初めて日本の電車に乗った。
↓秋葉原の道端でカッコいい男の子と。
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コメントありがとう。
さあて、次は誰が来るか楽しみだわ~。
エンレイさんも早く来てね(関西だったら会えるんだけど)。
いずれにしても、日本語の勉強は続けているよね。
広州は暑いでしょう。夏バテせずに元気に過ごしてください♡
『日本語を中国語に訳すことは易しいですが、その逆は本当に大変だということです。』
ですが、これは逆だと思っていたのですが、・・・
日本語の場合には、『誰が』『誰に』の主語を省略して、普通は喋らない。
主語がなくてもお互いに忖度して意味が通じる。
外国映画を吹き替えでは無くて、字幕で鑑賞出来るのも、主語の省略の効果が大きいでしょう。
日本語を翻訳する場合、省略されている『誰が』『誰に』の主語を新しく入れないと意味が通じない。
もしも本当に『日本語を中国語に訳すことは易しい』とすれば、
日本人同士の会話で何時もなら省略している『誰が』『誰に』の主語を、あらかじめ気を使って、わざわざ入れていた可能性はないのでしょうか。
科学論文では日本の学界に出されるものでも日本語では無くて英語が基本なのですが、理由は多少は植民地根性もあるでしょうが、それ以上に英語では正否とか主語の欠落では文章と成り立たない。
ところが日本語だと、まるっきり抜いても十分に意味が通じるのです。
代表的な例は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」のヒロシマの原爆碑。
このヒロシマの原爆碑に、英語的に『誰が』『誰に』の主語を書き入れると、
途端に日本たたきの意思が露骨なソウルの日本大使館前の従軍慰安婦の少女像と同じような、明確な政治的なメッセージを持ってくる。
。
確かに主語が省略されることの多い日本語は文脈から判断する言語の代表ですね。英語、中国語などは主語があって当然の言語です。そういう言語圏の人々にとって、日本語の理解は難解でしょう。
しかし、それは文章について言えることであって、会話では中国語も主語抜かしは日常的です。
また、実は、中国の日本語学科の学生たちは常日頃、日本のアニメやドラマをせっせと見て勉強していますので、日常会話については聞きなれており理解し易いのです。
問題は、どれほど自分が会話するかということです。
学生の多くは日本語能力試験1級(N1)に合格しています。ですが、その試験内容はリスニングとライティングだけで、自分が話す能力は問われません。従って学生の多くは、文法、語彙、聴解、読解に学習の重点を置き、私が1週間に1度のボランティアでオープンしていた「日本語コーナー」=日本語会話クラブに参加する学生は限られていました(プンプン)。
というような事情です。
広島の慰霊碑の言葉「過ちは繰り返しませぬから」は、実に、主語を欠落させることをもって、当時の為政者が戦争の政治責任を問われずに生きながらえることができた優しい、ありがたい御言葉なのでしょう。
私は戦後の教育を受けて育った人間ですので、当然、「過ち」は天皇をはじめとする当時の政治家・軍人がその責任を負うものと考えていました。
しかし、最近堀田善衛さんの「方丈記私記」に、
1945年3月の東京大空襲の被害に遭った都民たちが、
空襲直後、外車で視察に来た天皇に、文字通り土下座して、
「申し訳ございません。私たちの努力が足りなかったばかりに、こんなに焼いてしまいました」
と泣きながら謝ったのを眼前に見て、著者が愕然としたという記述があり、それを読んで私も愕然としました。
(なんでこうなるの???)という思いです。
日本人とは、いったい……。
仕方がないので、今度は鴨長明の「方丈記」を読まなければなりません…(笑)。