毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「読谷村の残波ビーチ、シムクガマとチビチリガマ」No.2191

2018-02-18 22:40:08 | 我が心の沖縄

今まで沖縄と言えばいつも大浦湾付近の安いゲストハウスに泊まっていましたが、

今回、大阪と広島の3名のオールドフレンドは

読谷村のフェイスブック友達Sさんのお宅にお世話になることになり、

那覇からレンタカーで一路読谷村を目指しました。

初めてお会いした豪放磊落なSさんに

チビチリガマ、シムクガマ、残派ビーチなど、

名前だけしか知らなかったところに案内していただき、

 貴重なひと時を過ごした3人は、

Sさん懇意の金城実さんのお家まで足を伸ばして、

家の外のアトリエ作品を見せていただき、

その後はSさんのお宅に戻り、

炙り鯖、肉じゃが、島豆腐のキムチ盛りなどたくさんのおもてなしをうけて

盛大な宴会と相成りました(笑)。

夕方の残波ビーチ。私たちは思わず歓声をあげました。

日曜日の平和なひと時、人々の散歩する姿がちらほらと見られ、

ずっとこんなときが続いたらどんなにいいだろうと思わずにはいられません。

この海の名前は東シナ海だよ、とSさんが教えてくれました。

そっかー、読谷村の向こうは中国なんですよねえ。

 

ビーチの近くには金城実さんと二千人の人たちが力を結集して作った

残波大獅子(ざんぱうふじし)のモニュメントが。

太鼓グループで同名の人たちがいますね。

少年が大獅子に手を振っていたのが可愛かったです。

この大獅子は中国の方を見ています。

 

さて、私たちが案内されたガマの一つ目はシムクガマ。

このシムクガマには1000人もの人々が避難していたのですが、

米軍の砲撃が激しくなり、いよいよ本島上陸が迫った時、

恐怖に陥って混乱する人々を2人のハワイ帰り、比嘉平治さんと平三さんが

「アメリカ人は人を殺さない。投降しよう。」と呼びかけて、

全員自決をせず生き延びることができたのでした。

チビチリガマが悲惨な集団自決という事態になったのと対照的です。

 洞穴はとても奥深いので、私たちはほんの少し入って引き返しました。

ガマの入り口を流れる川の水が

1000人の避難者にとってどれほど重要だったかは言を俟ちません。

 

 がまの中に川が流れ込んでいるので足元はズルズル滑ります。

また、外の草むらは「ハブに注意」の看板があり、ちょっとどきどきしました。

 

こちらはチビチリガマです。

1945年4月2日、米軍が上陸した翌日、「鬼畜」の残虐を教えられていた村民は、

このガマで140人のうち、83名が集団自決しました(させられました)。

昨年秋に、少年たちが「肝試し」と称してこのガマを荒らしたことは

読谷村の先生方にどれほど衝撃を与えたか計り知れないものがあると、

Sさんが教えてくださいました。

Sさんのお孫さんの小学校では、

毎年学習発表会をしていますが、今年1月の発表会のテーマは

1年生から6年生まで「平和」で統一されていて、

6年生の創作劇「さとうきびの葉がゆれて」は

よくぞここまで・・・という深い内容が表現されていたそうです。

先生方の取り組みの姿勢が反映したのですね。

 

下の白い像は、金城さんと肝試しをした4少年がともに彫ったものだそうです。

一体どんな経過でそうなったのか、今、彼らはどんな気持ちでいるのか

機会があれば金城さんにお聞きしたいものです。

 

 

 

 

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1 コメント

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以後も楽しみです。 (こきおばさん)
2018-02-19 06:39:42
沖縄からの発信、感動とともに読ませていただいています。
続きが楽しみです。
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