小学校一年生のときに、入院中の病棟で「ゲゲゲの鬼太郎」を見たのを覚えている、ということを「水木しげる」の記事で書きました。
-小学校一年生のときはどんな子だった?
と聞かれたとしたら、どう答えるかなあ、と考えてみました。
正直言って、50年近く前のことはよく覚えていません。
私は4月1日生まれで、同学年の中で最年少。そのため身体的発育面でハンデがあり、体が小さく、けんかも弱かった。入学してまもないころ、体の大きな同級生に投げ飛ばされたことを覚えています。
体も丈夫ではなく、1年生の時に感染症で入院したことがあるのは先に書いたとおり。
入学式も、どんな授業があったかも、ほとんど覚えていません。
ただ、母親が保護者面談で担任から聞いた話として、「隣の席の、腕を骨折してギブスをしていた男の子の面倒をよくみていた。とても思いやりのある子だ」とほめられた、という話を覚えています。そのときは、自分では別に面倒をみたつもりはなかったのに、先生からはそう見えたんだ、と意外に思ったので記憶に残ったのでしょう。
こんな断片的な記憶を総合すると、小柄で、病弱で、いじめられていたけれども、思いやりのある男の子、というようなイメージになるでしょうか。
ところで、この年末年始、家のリフォームの準備のために、荷物の片づけをしていました。すると、私の小学校時代の図画工作の作品とか作文とかが出てきました。その中には小学校1年のときに書いた作文もありました。
一かっきのこと いぬなべ
えんそくたのしかった。うんどうかいおもしろかった。ぼくは、一かっきのときみんなのすかあとお、めくりました。そいで○○くんがでぶでおもしろかったです。
濁点がなかったり、助詞が抜けていたり、敬体(ですます調)と常体(である調)がまじっていたり、カタカナがかけなかったり、と、まだ読み書きが不完全なことがわかります。4つの文のつながりも悪く支離滅裂。一年生ですからね。
そのころは確かにスカートめくりがはやっていた。「オーモーレツ!」のCMはこれより少し後だったかもしれません。○○くんというのは、まさに私を投げ飛ばしたがき大将です。いじめを受けた相手を作文で「でぶでおもしろい」などと書いていたのですから、いじめられていた意識はなかったのかもしれません。
もう一つ。
おとなへ。 一ねん 四くみ いぬなべ
ぼくたちのあそびばをもっといっぱいつくれ。つくんないとぶっとばすぞ。おまけにころすぞ。アパートなんかぶっこわしてあそびばをつくれ。ひろいはらっぱをしゅうしゃじょうにしやがってばかやろう。もっといっぱいつくれー。
漢数字がまじっているところを見ると、漢字を習い始めた2学期以降と思われます。「ぶっとばす」「ころす」「ぶっこわす」「ばかやろう」など、過激が発言がたくさんあります。このころ、家の周囲には空き地がいっぱいあって、子どもが草野球をするのに格好のスペースでした。しかし、新興住宅地として開発の波が押し寄せ、道路が舗装されたり、空き地を駐車場やらアパートやらにしたりといった宅地開発が進んできました。
家のすぐ近くにあった空き地も駐車場に。作文はそのことに対する抗議だと思います。
しかし汚い言葉づかいですね。
私には4学年年上の兄がいて、よく兄の友だちにまじって遊んでいたのですが、その仲間たちの言葉づかいがうつったのでしょう。「~しやがって」などは、学校や家庭というより、近所の悪童と遊んでいたときに身についたと思われます。「おまけに」の使い方がちょっとおかしくて、笑ってしまいました。
これをみると、「小柄で、病弱で、いじめられていたけれども、思いやりのある男の子」なんていうイメージはぜんぜん湧きませんね。
でも、こちらは動かぬ物証ですから、50年後の証言よりもよっぽど確からしい。でも、私は偽証したつもりはぜんぜんなく、思い出すまま、正直に証言したんですけどね。
元慰安婦が証言をしたのは1990年代前半。ちょうど50年前の記憶を思い起こしての証言でした。しかし、証言内容はあいまいで、当時の記録と合わないものが多い。それで、「嘘つき」よばわりされたりしていますが、本人は嘘をついているつもりはなく、記憶のままに答えているのかもしれません。
問題は、証言を聞く側にあるように思います。質問者には明確な目的がある。すなわち、日本糾弾です。元慰安婦はそれこそいろいろな記憶が蘇ってくるのだと思いますが、辛い日々のなかの束の間の美しい思い出はお呼びでない。聞く側はいかに虐待されたかにだけ関心があるわけです。
それでなくてもあいまいな記憶が、誘導尋問によって取捨選択され、歪まされて出来あがったのが、各種の「証言」なんだろうと思います。
その点、取材者にあまり「日本糾弾」の意図が強くなかったと思われる、文玉珠さんの証言なんかは異色です。お金をたくさん儲けたこと、軍人の中に好きになった人ができたこと、その軍人が無事に帰還してきたときは自腹でごちそうをしてあげたことなど、韓国の支援団体にとってはむしろ聞きたくないような内容がたくさん入っています。
昔は空き地が一杯有ったものですが、今の都市部の子供って空き地そのものを知らずに育つことが殆どで、遊び場というと公園か遊興施設と言うことになります。
これがまた今や安全なものしかおいてないつまらないものばかりになって来ていて、昔のように秘密基地を作ったり、缶蹴りしたり隠れん坊したり。そんな当たり前の遊びが全く出来なくなってますよね。
それは兎も角、人間というのは物心つくのが大体小学校二年位らしいです。それまでは特に印象に残ったことの断片の映像しか覚えてない場合が殆どだとか。
だけど、年を経て成人辺りになると、割と当時のことを覚えてるようです。
勿論、日々の些細なことでは無く、それなりの出来事ですが。例えば、誰かに告白したとか。
95でぼけること無く亡くなった祖父も、昔の兵隊に行った頃など若い頃の話は鮮明に覚えてるんですが、例えば昨日の食事とか、そういう最近の些細な出来事は忘れてる事が多かったですね。
そういう意味では、老女達の慰安婦をしていた頃の出来事などを鮮明に覚えていてもおかしくは無いと思いますが、多分後知恵でゆがめられた記憶は話せば話すほどぼろが出るようなあやふやな話になると思います。
そして、何度も何度も刷り込まれることで、元々の記憶自体がすり替えられておかしくなる。
慰安婦問題が騒がれる前の話と今の話がまるで違うのも、多分そういう事なのかなあと思います。
大体、慰安婦など人権をビジネスにしてる彼らが言うようなことが現実に起きてたなら、今の韓国を見ての通り大暴動が頻発してたでしょう。
ただ、今もまだ現実に起きてますが、かつても起きた騙されて連れてこられたというのは、朝鮮半島の女衒の仕業です。
日本政府か彼らを取り締まり被害者女性達を救済する義務を負ってました。
今思えば、ルールもはっきりしていなくて、がき大将が自分に都合のよいように勝手に変えていたような気がします。
人権侵害について言えば、現在進行形の、北朝鮮の女性たちの人身売買に心が痛みます。