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ボルフェス的宇宙 フランス国立図書館



研究者と学生のみ利用可能な宇宙。
ここで勉強できるなら何度でも学生やりたい...



フランス国立図書館 Bibliotheque nationale de Franceは、14世紀にその名も賢明王シャルル5世によって創立された写本や図書などのコレクションを起源に持つ。

その後も歴代の王によって規模は拡大し続け、フランス革命後には修道院や亡命貴族の蔵書が没収され、王立から国立となったこの図書館に入ったものも多い。
革命時には同時に失われたものも多かっただろうけど。




現在の建築は、19世紀のラブルーストの作品であり、図書館はこうでなければならない公式通りの宇宙のように美しい建築であるが、完成当時は批判も多かった鉄とガラスを多用した建築である。


研究者や学生、一部は一般も閲覧可能で、文化的な活力を生み出し、知識の普及と社会全体の知的成長に貢献する。



オーヴァル・ルーム、芸術本が中心。
こちらは誰でも利用できる


ヨーロッパの図書館が美しいのは伊達ではない。

権力の理念を基礎づけ、正統性と合理性を証明して見せるためなのだから。




ヨーロッパ中世の王侯は、「武力で支配する権力者」という存在から、「支配の正統性を持つ権威ある者」へと自己イメージを転換させていくのに、図書蒐集を役立てた。
「叡智による支配」の第一歩が図書蒐集であり、学芸保護、美術保護と続くからである。

古写本や古代遺物の蒐集は、世界を項目別に分類、体系化、序列化、再構成し、百科全書的になり、やがて世界をカタログ化した小宇宙を形成するようになる。

これが博物館の元となる。

王侯らがこういった蒐集をし、分類、序列化、再構成するのは、小宇宙を統御する能力を象徴的に表し、さらに広い世界としての大宇宙にも君臨する能力がある、という意味を持っていた。

彼が支配しようと欲するのは現実の政治世界ではなく、観念の中での「大宇宙」つまり神が支配する自然世界の完全掌握なのだ。

図書館は彼の宇宙なのである。

メガロマニアックではあるものの、これが知性や理性を重んじ、社会の進歩と合理化を目指とする啓蒙につながったのでは。


ということは現在、アメリカを中心に起きている、反知性主義というのは、歴史の逆行...



垂涎もの、芸術本のコレクション。
わたしはこれらを閲覧に来た。


わたしなぞは図書館に立つと、己の矮小さと、宇宙の豊かさに向かって開ける無限の扉を感じて恍惚としますがね...




フランスも問題が多い社会だが、こういうのを見るとさすがリベラルアーツの国だなあと感心するのである。
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パリ、今週もまた美し




一度、英国に帰り、別のお楽しみ(ピアノとバレエだった)を済ませてまた昨日からパリに戻ってきた。

昨日は夕方から再びルーヴルへ。
先週、チマブーエ展と一緒に見学できるだろうとタカを括っていたルーヴル初のLouvre Couture「クチュール展」をさらに見るために。


「クチュール展」は想像よりも規模が大きく、その話はまたするとして、ルーヴルには怪人がいるのだろうか...と、夕暮れる中庭を見ながら思っていた。

『オペラ座の怪人』の愛が報われないのは、怪人(ファントム)が社会から疎外されており、当時の社会的にクリスティーヌに愛される資格がないからだ。
彼は彼女を深く愛するが、その愛は執着と恐れと表裏一体、健全な関係にはなりえない。
なんと切ない。
そして最終的にクリスティーヌは他の男を選ぶ。

うむ、わたしとパリの関係みたいだ...
わたしには怪人の持つ才能もない。

一方、日本文化とフランス文化はなかなかの両思いである。

本屋には日本文化の本がどの国についての本よりもたくさんあり、今日は「パリにある日本のお店」だけを集めた本を見つけた。
最高級レストランから、パン屋さん、おむすび専門店まで、和食材店、雑貨、マッサージやエステ...わたしの判断にはバイヤスがかかっているだろうか? いや、英国住みとしては、英国人はフランス人ほどまでは日本文化には関心がないとはっきり言える。

そういえば、日本文化に興味があったからではないと思うが、ルーヴルのマリー・アントワネットの持ち物の展示物の中に、十二単の女性の蒔絵文箱があった...


美しいパリで会いましょう。
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osipova/linbury




ロイヤル・バレエの大スターの一人、Natalia Osipova(以下ナタリア)は、同バレエに移籍して以来、自己キュレーションによる多彩なサイドプロジェクトをいくつも試みてきた。

今回の、リンベリー・シアター(ロイヤル・オペラ・ハウス地下)での最新作は、バレエの枠を超え、これまでで最も破天荒だったと言えるかもしれない。

もうこれはシアター(劇)!!


憑代(よりしろ)となる子供のように純粋で愛らしく、神の言葉を語る巫女のように力強く、成熟して、妖艶でさえある...
彼女にとっては、ダンスもセリフのある芝居も、境界線がないのかもしれない...




3つの演目は、70年代から歴史的な2つのダンス作品。

まずはマーサ・グラハムがミノタウロスの神話を再解釈したErrand Into The Maze『迷宮への使命』。
なんとセットはイサム・ノグチ氏による。

表現主義的な振り付けの、伝統的なバレエにない角度、苦悩するような小刻みな動き、身体の収縮と拡大で、ミノタウロスの圧倒的な男性的パワーに対峙し、やがて恐怖から解放され生まれ変わるアリアドネ役。
ミノタウロスを演じるのは、ロイヤル・バレエのプリンシパル、堂々のMarcelino Sambeであった。


次にフレデリック・アシュトンFive Brahms Waltzes in the Manner of Isadora Duncanの有名な『イサドラ・ダンカンのブラームスの5つのワルツ』。
映像作品でとてつもなく、胸が締め付けられ泣けるほどヒューマンで美しいのだが、生で見たかったよ...




最後に、ノルウェーの振付家ヨー・ストロムグレンによる世界プレミア作品The Exhibition『展覧会』(これがもう劇作品)。

巨大な絵画が展示されるギャラリーで出会う二人を描いた作品だ。
ナタリアはロシア語でペラペラと饒舌に語る奇妙で魅力的な女性役。
一方、パートナーのChristopher Akrillは、なんというかまあ、モテそうにもない英国人男性役。

なぜかナタリアは彼を殻をセラピー的にこじ開けることにこだわり、最後に絵画の中に一緒に飛び込み、絵画と一体化するのだ。
彼が途中でコンタクトレンズをなくすというのも「目から鱗」という意味なのかもしれない。

ひょっとして彼女はミューズだったのか...


期待していたものとは全く違っており、唖然とした(そりゃファンなら彼女の天衣無縫な踊りを期待している)が、彼女が何をしたいのかが十分伝わってきた。
次回のプロジェクトも楽しみである。
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フーガの技法は宇宙の技法




イングランドに戻り、Sir Andras Schiff (以下アンドラース・シフ卿)のリサイタル、バッハの『フーガの技法』を聞きに。

わたしは彼がリサイタルの合間に繰り広げる、ユーモアと皮肉混じりの小話を愛するものだが、今回はなんとなかったんですよ! それが!


だから、わたしが話すことにする。

西洋音楽において、対位法が重要なのは、音楽の構造と発展の基礎であり、単なる技法ではなく、独立と調和を両立させる原理だからである...
というのはわたしでも知っている。

あ、ここで目が文字の上を滑りましたか。
抽象的で説明が難しいときは、例えば、「建築は凍れる音楽」とはゲーテかシラーだかの名言であるから、建築を例に考えてみよう。
専門家はこういう卑近な話はしないだろうし...

対位法を 「建築」 に例えると、「柱」「壁」「天井」が独立していながら、全体として完璧なバランスを持つ設計」のようなものであろうか。

モノフォニー(単旋律)は、 最小限のシンプルな小屋風、初期キリスト教建築やゲルマン・ケルト系の建築であるとする。
ホモフォニー(和音中心)は、重厚だが、構造は単純なロマネスク様式ということになろうか。
ポリフォニー(対位法)になると、 柱・アーチ・装飾がそれぞれ独立しながら全体で調和するゴシック建築やルネサンス建築である。

バッハの音楽は数学的な美を持ち、全体に自然で美しい建築物のようなもの。
フーガは、ひとつの主題がさまざまな形で登場しつつ、全体の「建築」が完成していくイメージに近い。




そういえば、アンジャン・チャンタジー『なぜ人はアートを楽しむように進化したのか』の第9章「数の美しさ」にはこういうくだりがあった。

「美しい数学は隠れていたものをあらわにする。簡明で、仮定を最小限しか使わず、新たな洞察でわれわれを驚かせ、他の問題も解けるように一般化する。」

「オイラーの等式は、多くの数学者によって最も美しいているだと考えられている。」

「オイラーの等式が美しいのは、簡潔でありながら驚くほど包括的だからだ。」

「ユルゲン・シュミットフーバーは、美しい数学が隠れた規則性を明らかにするという考え方を、データ圧縮の認識という形でとらえ直した。」

「われわれは、データ圧縮を認識した時に快感を経験する。あまりに規則的なものは、明白なので美しく感じられない。逆に複雑すぎて規則性がないものは、カオス的で手に追えないので美しくない。」



シフ卿の演奏は、音の選択が極めてクリアで無駄がなく、バランスが完璧であり、対位法が明瞭、淡々と進むだけではなく、内在するエネルギーがすばらしい。
「少ない要素で最大の効果を生む」 という点で、彼の演奏は建築だけでなく 数学的な完全性 にも通じる。
まさに 「バッハの音楽そのもの」 を体現した演奏だった。

宇宙という万華鏡が縮んだり、開いたりするようで、小さい己が、無限とつながるように感じる夜だった! 


Sir Andras Schiff
Bach Die Kunst der Fuge、BWV 1080
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貴婦人と一角獣



6枚目の謎の「我ただ一つの望み」A mon seul desir



『貴婦人と一角獣』は、タペストリー6枚組みの、天国のように美しい連作である。

このタペストリーは、おそらく15世紀ごろパリで下絵が描かれ、フランダース(現ベルギー)で織られた。

10年かけて改装後、2022年に新装オープンとなった、パリの国立中世美術館クリュニー美術館に現在も展示されている。



味覚 貴婦人が、侍女が差し出す鉢からドラジェをつまみ、左手の上にいるオウムに差し出している



ジョルジュ・サンドが絶賛したことから有名になったというカラフルな逸話があるにしろ、そうでなくてもこのタペストリーの全体に漂う優雅さや、貴婦人の服飾のオシャレ度、色のと構図の美しさ、テーマのおもしろさ、動物や植物の愛らしさ...
すべてのファンタジーがすばらしく、ただただ何時間でも眺めていられる。大好き。

一角獣、ユニコーンが注目されがちだが、コミカルな表情のライオンも、うさぎや犬も狐も、ほんとうにかわいらしい。



聴覚 貴婦人が小型パイプオルガンを弾いている


わかりやすい華やかな美しさにも関わらず、テーマは長年不明とされてきた。
現在では人間の5つの感覚「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」を表現したものとの見方が強く、そして6枚目は「我ただ一つの望み」(A mon seul désir)を現しているという。

「我がただ一つの望み」とは? 
それはいまだ謎...「愛」や「理解」と解釈されることが多いそうだ。



視覚 ユニコーンは前脚を貴婦人のひざに乗せ、彼女が持つ手鏡に映った自分の顔を見ている



以下はわたしの想像の世界での遊び。

わたしは第6枚目は、「物質界の束縛から解放されること」つまり「霊的な愛」ではないかと思っている。

ここで貴婦人は思い切った短髪(他の貴婦人はみなとても長い髪をしている)で、首飾りを外しているところに注目したいからだ。

長く美しい髪も、豪華な宝石も物質界の、儚いものである。

そして側に常に侍る、ユニコーン。

ユニコーンが象徴するのは何か。



臭覚 貴婦人が花輪を作り、侍女は花が入った籠を捧げ持つ



ユニコーンは西洋の伝統において、純潔や貞節の象徴である。
ユニコーンが処女にしか懐かないというのはよく知られているハナシだろう。

貞節によって魂は物質界の欲望から解放され、愛(ここではプラトニック)によって高次の存在へと向かい、美が生まれる。そのことを表現しているのではないか。

ネタはネオ・プラトニズムです。



触覚 貴婦人が旗を掲げ持ち、左手はユニコーンの角に触れている



ライオンの顔がかわいい


つまり、真の美は物質的なものではなく、貞節(精神の純粋さ)と愛(霊的な上昇)の結合によって顕現する、と。

ユニコーンは 貞節と愛の結合によって生まれる「美のイデアへ」の導き手となっているのでは。


ユニコーンと常に対になって現れるライオンが象徴するのが騎士道や王位であるとしたら、そういう相手との結婚に際して織られたのかもしれない。



国立中世美術館 クリュニー美術館は10年以上の改装期間を経て2022年に新装開店。新装してから初めて行った。
現在は地下のローマ時代の浴場に、ノートルダム大聖堂での発掘品が展示されており、興味深い。
記憶に新しい火災後の発掘品や、中には革命後に取り崩されて市場の柱に使われていた聖書時代の諸王の頭なども回収されて展示されている。
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