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上海が見た夢 租界と外国人居留地




上海に来るにあたって読んだのは榎本泰子著『上海 多国籍都市の百年』。

わたしは旅先に関する本を必ず読む。
何度も訪れている旅先だったとしても。
故郷神戸に関する本でさえも読んでから行くくらい。

友達に「真面目だねえ」と言われたこともあるが、もちろん真面目だからではない。

本を読むと旅が100倍以上楽しくなるから! につきる。
自分の無知で無学な狭い視野で旅先を見るよりも、専門家や、全く違う立場や属性の人の案内で見たら旅は断然おもしろくなる。これにつきる。

榎本さんの著書、飛行機の中で読了した。機内ではゆっくり寝るつもりが、めちゃくちゃ面白くて!




わたしの上海に対するイメージは非常に非常に限定的で、まずは「租界だ」。

わたしが神戸出身で、子供の頃からずーっと「旧外国人居留地」が身近で、果てしないロマンを感じているからだと思う。




現代的なロマンティック眼鏡を通してながめると、上海の租界や日本の旧外国人居留地はある種のベール、魔法の粉をかぶっている。

当時の歴史的背景、租界はアヘン戦争以降の政治の駆け引きのひとつの結果であり、圧倒的軍事力をバックに運営されていたこと、帝国主義と植民地主義の欲望や不平等な条約によって中国人が搾取され続けたことなど...の上に。

ある種のベール=異国情緒、それがなぜ「ロマンティック」なのか。



ニューヨークの五番街を歩いているようにふと感じたりもする...


租界や居留地の、異文化が交錯する空間というのには独特の雰囲気がある。

上海租界を建設した英国人は頑なに英国式の生活様式にこだわったというが、それでも、いやそれだからだ。

租界や外国人居留地は、西洋と東洋が出会う場所であり、例えば、上海の外灘や日本の横浜や神戸の居留地では、伝統的なアジアの風物や風景に、洋風建築や当時最先端のインフラが融合していた。

上海の外灘に残された多様な西洋の建築様式のグラマラスな建物も、中国の伝統的な紋様を取り入れたり、気候に合わせた工夫がこらしてあったりし、「いつの時代でもなく、どこの国でもない感」が漂う。

「いま、ここ」ではない、遥かなる世界への憧れ、これがロマンティシズムの真髄である。




時代と空間を超えて存在する「非日常」空間の持つ魅力は大きく、いつの時代でもなく、どこの国でもないエキゾチシズム、異国情緒...


また、当時の上海には、世界中から大商人、政治家や革命家、貴族、外交官、冒険家、亡命者、芸人、山師、スパイが集まり、一筋縄ではいかないドラマが繰り広げられていた。
過去や宗主国の身分制度、コンテクストから切り離され、「いま・ここ」「今よりもよい未来」に生きるしかない人々の見た夢。



こちらは旧フランス租界


過ぎ去ってしまった、自由で冒険的で、夢のあった(少なくとも植民者には)時代の気分、空気はそこの石畳に、そこの壁にと染み込んでいるようだ。

現代から振り返ると、写真の一葉のように美しい部分だけ切り取られ、失われてしまった理想郷のように感じられ、訪れる人々に郷愁や憧れを呼び起こす。




過去を理想化するのは、心理的安定や社会的結束を保つための人間の自然な性質なのか。

ポジティブな記憶を強調することでストレスを軽減し、共通の「良き時代」の記憶が人々の連帯感を生む。

また、文化や価値観を次世代に伝える役割も果たし、未来に前向きに生きる助けとなるだろう。




しかし歴史修正主義スレスレ...

美しさだけを賛美し、旅情に浸るのではなく、文脈をつまり歴史を学ぶのは重要だと感じた。


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サンタクロースの露払い@上海




今夜、上海で宿泊中のホテルの近くに上海蟹を食べに行って戻ってきたら...

クリスマスの飾り付けの準備をする黒子さんたちが大忙し!!

近頃はモエの行くところ行くところでクリスマスツリーの飾り付けの現場を目撃するので、サンタクロースの露払いをしているような気が...


ホテルカペラは、落ち着いた旧フランス租界にあり、高層建築が多い上海の街並みの中なかで、伝統的なシクメンShikumen(石庫門:1860年代以降の上海の中洋折衷型の伝統的建築様式。多くが2、3階建ての連続した建築が共用通路や中庭を囲んだ構造で作られており、高い煉瓦塀と門で外部から遮断されている)をそのまま改装して使っている。

部屋は一部屋が3階建ての作り。一階が中庭と居間、2階がバアのある娯楽室と浴室、3階が寝室、その上には屋上のテラスがある。
モロッコの、こちらも素敵なロイヤル・モンスールを思い出す。あちらも村の一角の建物もそのままホテルに改装してあるのだった...




部屋の入り口から前庭ごしに眺めた居間。夜は特にいいなあ。


上海! 租界のロマンやその黒歴史、魅惑の食事、英語がほとんど通じない、街の匂い、噂通りGoogleその他に接続できない、独裁の陰...そして中国人がみなさんめっちゃ親切、優しい...書きたいことがたくさんあるのだが、今夜はこの辺で。
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家にツリーを飾ったら...旅に出る




クリスマス・イヴは1か月後...
家のなかに3本目のツリーを飾った。

一枚目の写真は途中経過。

これで心おきなく旅に出られる。




完成。

何が違うかって?

ろうそくの数が40本になったのと、壁の絵(笑)。




リースは年中飾っているものを除くと、こちらも季節のものを3本。

離れにも一つ、大きいのを飾ろうと思っている。
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雪待ちのロンドン11月




友達とご飯を食べたあと、夕暮れどきのロイヤル・アカデミーで Michelangelo, Leonardo, Raphael Florence, c. 1504『ミケランジャロ レオナルド ラファエロ 1504年のフィレンツェ』展を観覧した。

20時になってバーリントンの美しい建物を出たら、目の前にピカデリーのクリスマスの色が広がっていた...

斜向かいのフォートナム&メイソン、外から見るのはいいものの、館内はもうすでに激混み。
日本へのクリスマスプレゼントを購入しようとしたが、ゆっくり見るのも嫌に。




こちらも美しいパディントン駅構内では音楽の演奏が...

くまのパディントンもこんな様子を見たのかしら。

あんな澄んだ目でものごとを見たいものだ。
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リバタリアンのゴージャスな宮殿




2023年のオープン以来、ブルージュに帰省すると宿泊するホテルがある。

19世紀の公証人の大邸宅を改装したThe Notary。
部屋数は9。
一部屋ずつ異なる凝った装飾が心おどる、家のようにくつろげる落ち着いたよいホテルだ。

先週はすでに各部屋に大きなクリスマス・ツリーやマントルピースが飾られ、季節の特別感にあふれていた。




しかし、ひとつだけ、たったひとつだけ、このホテルにはかすかに居心地の悪いことがある。

言ってもいいかな...




ここは実にリバタリアンの宮殿なのである!


リバタリアンは政府の介入を最小限に抑え、市場と個人の自由や自己責任を最大限に尊重する立場である。

社会が円滑に機能するために最低限必要な設備やサービスであるインフラ(例えば道路や鉄道、上下水道やガス、医療や教育、国防や警察、裁判所などの治安維持システム、ごみ収集、堤防や避難所の設置...)も、民間が提供し、受益者が費用を負担すべきと考える。
まあ今後のアメリカですわな。




リバタリアンの宮殿? ホテルが? 

どういうことか、と思われるでしょう。

9部屋それぞれには部屋ナンバーではなく、リバタリアン経済学者、無政府資本主義(アナルコキャピタリズム)思想家の名前が冠してあるのだ。

例えば、フリードリヒ・ハイエク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、アイン・ランド、マレー・ロスバート...




しかも、ホテルの部屋に備え付けの本といえば普通は聖書だが、ここではリバタリアンの著書群、雑誌である。
思い切り洗脳してくる。

リバタリアンの哲学が、その美しいブルーグレーの壁から漂ってくる...




わたしはケインジアンなのに!

と、普段は全く意識しない自分のケインジアン的な部分が叫びそうになる。

ケインジアンは経済の安定と成長には政府の介入が不可欠だという立場だ。
だから部屋のドアに美しい飾り文字で書かれた最強リバタリアンの名前を見るたびに、くつろぐどころか対決するような気持ちになってしまうの(笑)。

ケインジアンが、ハンス=ヘルマン・ホッペなどという名のついた部屋で過ごすのは...

おそらくアメリカ民主党の人間が共和党の大会に紛れ込んだらこのように感じるのではないか。




そうは言っても、わたしはリバタリアンや無政府主義に完全に反対しているわけではない。

むしろ、究極的には人類が成熟し、政府や警察や裁判所、あるいは「神」などのレフリーの介入なしに、公正で平等で自由な社会を築くのが理想だと考えている。

ルールが厳格で、常に仲裁者やレフリーが目を光らせている組織は、公平さと清潔さを保つ「かも」しれない。
が、成熟した個人が集まった組織ならば、ルールやレフリーがなくても自然に公平性や自由が保たれるだろう。

そのような組織のほうが、はるかに幸せで居心地が良さそうだと思うのだ。

最終的に人類が目指すべきは、権力を委託された政府や警察などの仲裁者の判断に依存する必要がなく、独裁的な権力を持たせる心配もなく、横暴や介入もなく、人々が自由で平等かつ平和な生活を送ることができる状態である。




一方、リバタリアニズムが生まれた背景には、歴史的な文脈がある。

啓蒙時代やアメリカ独立戦争、共産主義の台頭といった時代に、個人の生命や自由は国家の強権的支配によって大いに脅かされてきた。
現代のヨーロッパの社会福祉資本主義の中にも、税金が重すぎる、規制が厳しすぎる、EUが口を出しすぎるなど、同じように感じている人々がいるだろう。

国家の介入が強まる中で、個人の自由を守るためにリバタリアニズムが発展してきたことは理解できる。

しかし、わたしは政府の役割を止めることには、少なくとも今の時点では疑問を感じる。国連はほとんど機能していないが。
人間は「今だけ、ここだけ、自分と身内だけ」という考え方から未だに脱皮できていない...




この点において、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの思想は、リバタリアニズムとケインジアニズムの間をつなぐのではないかと、素敵なサロンでお茶を飲みながら思ったのだ。


19世紀スペインの偉大な思想家オルテガは、個人の自由を尊重しながらも、成熟した個人が社会全体に対して責任を持つべきだという立場を取っている。

著書『大衆の反逆』では、大衆がただただ多数派へと無自覚に流されることに危機感を表明しており、個人の自由は単なる権利ではなく、成熟した個人が果たすべき義務と責任の一部だと強調している。

文明とは、人間が「野蛮」へと後退しないために存在する。

わたしはこのステイトメントに惚れ惚れする。




「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらは何のために発明され、なぜこれほどまでに複雑なものが作られたのか。それらはすべて《文明》という一語に集約され、《文明》は都市、市民、共同生活を可能にするためのものだ」とオルテガは言う。

文明は、「仲間」でも「同類」でもなく、「共感」も持てず、「つながり」も「絆」もない他者と共に生活するためにある。

それを体現する人々こそが「貴族」であると、実際に貴族の称号を持っていたオルテガは言った。
自分と自分の身内と友達、今・ここだけが良ければそれでいい「自由な」人たちのことではない。

すでにお分かりかと思うが、部族主義的に細かくグループ化されるのを好み、共感できないものは無視し、異質なものを排除する、それが野蛮である。


オルテガの思想は、リバタリアニズムが掲げる個人の自律性と、ケインジアニズムが重視する社会的調和の重要性を結びつけるものであると思う。

自由市場においても、個人の成熟と他者への配慮が求められ、同時に、個人の成熟が進むことで、ケインズ主義的な政府の介入も徐々に縮小されるべきだという視点ならば、非常に共感できるものだ。




ケインズ主義を支持しつつ贅沢を求める立場としては、ヘルマン=ホッペの部屋はちょっと早すぎたのかもしれない。

わたしはオルテガの宮殿を作ろうかな。
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