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ベルギー 対立について あるいは自由とは何か
一昨々日のベルギー 言語対立という記事がきっかけで、日本の友人と電話で長々話し合った。
日本ではあたかも「選挙の結果、明日にもベルギーが南北に分裂するかのように報道されていた」から驚いたそうだ。
ベルギー北部オランダ語共同体でネオソフト右派が圧勝し、独自の道を行くことを多くの人が選んだことに対し、南部フランス語共同体では左派が議席を守ったという現象には、社会的経済的に自立する自信のある北部と、社会福祉にある程度は頼らなければならない南部の、自分たちの将来に対するパースペクティブの差が現れていて興味深い。
彼女は、オランダ語共同体のナショナリズムに拍車がかかっていることや、イスラムの女性のニカブを禁じる法律が成立しそうなことなどから、久しく移民や外国人に対して融和政策を取ってきたベルギーが、ここにきて排他的になっているのはなぜなのか(先日も書いたが、EUの理念とは完全に逆行する。しかしグローバル化が民族意識を高めたのは誰もが知る通りである)、弱くなった隣人を弱さゆえに切り捨てろ、というオランダ語圏の態度はおかしいし、自由の国で特定の服装が禁じられるのもおかしいのではないかと言った。
わたしもそう思う。特に「自分も弱くなる可能性がある」(例えば事故に合うとか、年を取るとか、失業するとか)ということを勘定に入れられない社会にわたしは住みたいと思わない。
「自由の国で、ある特定の服装が禁じられるのはおかしい」に関しては、たぶんニカブ禁止に賛成の人たちの理屈はこうだろうと思う。
自由の国でニカブが禁止されるのがおかしいと言うのならば、禁止することも自由なのであると。民主主義下で決定された事項には従わねばならないと(実際そう言う人がいるのをニュースで見た)。
プロパガンディストがよく言うことである。彼らは自らの主義主張を通すためには、諸処の事情やわれわれの日常を守っているささやかな「道徳」などという事柄に関しては無視を決め込むのである。自分のやり方が、宗教原理主義者のやり方に似ずぎていることに気づかないのか。
ヨーロッパ(米国も)は結局、ホッブズが人類の平和的共存のためには危険であるから「捨てるべきである」とした「自然権」を、人間の根本的な権利として、歪めて捉えてしまったのだ(それはロックのせいだ、と長谷川三千子は言う)。
自然権とは、「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いるという、各人の自由である。したがって、彼の判断と理性において、そのためにもっとも適切な手段だと思われるあらゆることを行う自由」である。
しかし世の人間一人一人が、自己保存のための自分の欲望を「正しい権利」として行使してしまうと「万人による万人に対する戦い」を招き、バトルロワイヤルな世の中になってしまう。そうなると自己保存どころではない。
だから人間がこうした人間の愚を認識して、自ら「自然権」を放棄し、安全を共通の立場から保障してもらう、その方が結局は一人一人の自己保存の可能性が高くなるから...
というのが社会契約論だ。
つまり自然権とは人間のエゴのむき出しであり、それゆえに文明社会に置いては共同体に預けよう、そしてお互い譲り合って共存しよう、という手錠をかけられるべきものであったのに、現在ではそのエゴが「自由」「権利」と高らかに叫ばれるものになってしまったのだ。
宝の持ち腐れ。
わたしは条件付きでニカブ禁止反対派である。
というのは、平和理にやってきた移民をわざわざ差別して先鋭化させることは、ゼロだったかもしれない危険をわざわざ呼ぶことになるかもしれないからだ。
しかし一方では、人口も少ない高齢化した街、ベルギーから出たこともないような人しか住んでいない街の一角が、真っ黒のベールを全身に被った人で占められ初めたら、それは怖いのかもしれないな、とも想像はできる。
だからこそ、そこで人々は、自らが好き勝手を行使する「自然権」を放棄し、自由で平等な社会であるからこそ、被害者面をすることを止めて、大小の共同体でもって友好的な話合いで歩み寄るべきだと思う。
つまり、「自由」とは自由が保障されている国で自分の好き放題にしていい、という意味では決してなく、われわれがある程度自由である為にはお互いある程度譲り合い、我慢しよう、ということなのである。
たぶん成熟した市民とはそいうことができる人のことであると思うし、そういう人の多い社会は「自由」で、とても住みやすいのではないかと思う。
それができたら苦労しないとか、オチはそこかい、と言われるかもしれないが、他にいったいどんな方法がある?
そういった意味合いで、前にも書いたが、「ローマにおいてはローマ人のするようにせよ」というのは、まさに多様性のある場所では自分のエゴはちょっと抑えてお互い他者に敬意を払え、礼儀正しく、虚心坦懐でもって、という知恵であり、ローマ人と同じ服装をしろとか、マイノリティはすっこんでろとか、異教の神は拝むなという意味ではないと思える。実際、ある時期のローマはそういうことにとても寛容だった(このあたりはわたしはローマびいきなので)。
わたしは人間がいずれこういった問題を解決するだろう、とは決して思わない。社会矛盾も、誤解も、対立も差別もなくならない。
決定版の理想(この言い方は「白い白馬」ですね...)、というものもない。
ナショナリズムに関しても異文化に対しても、正しい解決法はこれとか、理論的にはこうでなければとかいう議論は不毛だと思う。
今、可能な方法はこれだけだけれど、これでなんとかやってみるか、どこまで行けるか試してみるか、しのいでみるか、というちょっと腰が砕けたような態度で、螺旋的に前進して行くしかないと思う。
そう思うと、今までのベルギーのように折り合い点を探し、迂回し、ぐずぐず問題を引っ張り続けることが、われわれの多様性から最大の利益をもたらす方法なのではないかと思うほどである。
オランダ語共同体にもベルギーにも、アクセルを踏みすぎないように望む。
彼女との会話の中で特におもしろいな、と思ったのは、以下である。冗談なので流して欲しい。
例えばうちの娘のように、ベルギー人としても日本人としてもアイデンティティは希薄で、信心はなく、キリスト教の学校に行ってはいるがリベラルで授業では宗教の多様性について習っていて、4カ国語を話し、将来はシンガポールに住みたいと望み、見た目はちょっと何人(なにじん)なのだか分からない...こういう人間が圧倒的マジョリティになったら世界は良くなるんでしょうかね。
わたしはそうは思えないけれど。人間はきっと他の区別差別を見つけ出すだろう。
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