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先生に「学ぶ」




わたしは学校の先生に対して要求は少ない方だと思う。
なぜなら、どんな先生からでも学ぶことはあると思うからだ。


9月から娘は6年生になり、勉強の内容がどんどん複雑になってきた。
今週と来週は期末試験期間中だ。
準備のために1ヶ月前に実施されたフランス語模擬テストのペーパーを見直していると、腑に落ちないことを発見した。
簡単に言えば、どんな文法書をひもといても娘の解答で正解なのに、バツにされている、という...ま、そういうこともありますよね。


それで翌日、娘がペーパーを持って、「これで正解だと思いますが、もし間違えているならば説明して下さい」と先生に質問に行ったら、「複数形は複数形です」という同語反復調の答え方をされたらしい。

なぜ間違えているのか説明もなく、納得できないので(同じ質問がテストに出たら困る)、そのまた翌日は文法書をそえ、「この本にはこのように説明してありますけれど、いかがでしょうか」と言いに行った。しかし先生はろくにその本を見ることもなく、うんざりした様子で、「複数形は複数形です」と前日と同じように対応したそうだ。
娘は先生が本を見てくれもしなかったことに憮然としていた。


わたしはこの対応に少々頭にきたので、先生に直接丁寧なメールをした。
このメールは校長先生も見たようで、双方から返事が来た。結局、先生が間違えていたことをみなが認める結末となった。



わたしが少々頭にきたというのは先生が子どもに間違った文法を教えたからではない。

フランス語の文法はややこしいし、先生だって勘違いをしたり、間違えて覚えていたり、混乱したりするだろう。ましてや彼女はフランス語専門教師じゃないんだから。
先生だって人間だ。忙しくて一人一人の質問に答えてやるほど時間がないことも、手が回らないこともあるだろうし、仕事以外に気になることがある日だってあるだろう。

しかし、「自分は絶対に間違えてない」という態度はどうだろう。
知的であるとは「自分が間違えている可能性を込みで考えられる能力」のことだと思うのだが。わたしはこのことを繰り返し恩師に叩き込まれた。


子どもが質問にきたら可能な範囲で説明する、もし「失礼ですけどこれは違うのではないでしょうか」と指摘されたら面倒がらずに謙虚に調べる、分からないことは分からないと認める、そういう態度は先生にこそ、いや大人にこそ必要なのではないだろうか。


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