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Brugge Style
6000 miles away...
クラシック・バレエのドラマツルギーに関しては拙い文をいくらでも重ねられるわたしも、「モダン・バレエは大好きでも所感を文章にするのが恐ろしく難しい」と、先月の初めここに書いた。
先日、ロンドンのサドラーズ・ウェルズで、天下のシルヴィ・ギエムの "6000 miles away" を見ながら、なぜそんなに難しいのかを考えてみた。
こういう作業を忘れずにできることが、ブログを書いてることの大きな利益のひとつなのである。
演目は「現代で最も重要な振り付け師とされている」イジー・キリアン (Jiri Kylian) "27'52''"、ウィリアム・フォーサイス (William Forsythe) "Rearray"、マッツ・エック (Mats Ek) "Bye" で、ギエムが踊ったのはフォーサイスとエック。
わたしの場合、クラシック・バレエを見ているときももちろんそうだが、モダン・バレエを見ているときは特に「人間の身体はこんな動きができるのか!」という驚きにまず圧倒される。ダンサーの動きに遅れぬよう眼球を動かすだけで精一杯。自分の身体の動きのお粗末さ、使ってなさをひしひしと感じる。
そしてその次の瞬間、「人間の身体の動きにはこれほどの限界があるのか(このレベルのダンサーにして!)」という別の驚きが大波のように襲ってくるのである。どんなに柔軟で、どんなに高くジャンプできても、どんなに大胆で鋭い動きであっても、人間が人間の身体を持つ限り、可能な動作はウィトルウィウス的人体図内に限られている。腕の長さも足さもその本数も、関節の数も限られている。ふくろうのように首を回すことはできないし、飛翔し続けることもできない。
それでも(それだからこそ?)彼らは人間の「身体言語の脱構築」しようとする。価値判断や諸制度、言語が入り込んで来て世界を分節する前の「零度」の状態を探るために。人間とはなんといじらしいのだろう...
もし、わたしがモダン・バレエから受けた感動を伝えるのならば、やはりわたしの身体をもってしか表現できないのではないか。ギエムより若いとは言え、身体をもって表現するとしたら、思い切り喝采するか、ぴょんぴょん飛んでみせるくらいしかできないけれど。
でも「感動しました! あれがこのように○○的で、xx性があった」とか言うよりもずっとふさわしいような気がする。
つまり、ありふれた言語の介在がより少ないからモダン・バレエはクラシック・バレエよりも感想を文章にして遺すのが難しい...ということなのだろうか。
次は今月半ばフォーサイスを見る。
もし、このブログにビデオ映像がアップされて、身体の固いおばさんが不器用に動いているようであれば、それがわたしの感想文だと思って下さい(笑)。
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