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seagram murals は扉のように




フランスには全土に葡萄畑が広がっている...という印象を何週間か前に書いた。

シャトーの窓から、車窓から、中世の城壁から、高台の遺構から、ヴィラのテラスから、散歩途中で。
遅い夜明け、薔薇色の夕暮れ、夜中の月の光、雨の日。

葡萄畑を見ていると、わたしには常にマーク・ロスコ(Mark Rothko)の作品が思い出された。

単純なわたしの脳は、「形状が似ている」「自分と自然が一体化して神聖な気持ちになる」くらいの理由で連想していたにすぎないと思うのだが、気持ちが新鮮なうちにロンドンのテイト・ブリテンにシーグラム壁画Seagram muralsを見に来た。




テイトにあるこの連作は、1958年、ニューヨークのシーグラム・ビル内のレストラン、フォーシーズンズの依頼がきっかけとなって制作された。

ロスコは「レストランの壁」にまとめて展示すれば、絵画と「場」の融合にこだわる自分の意思に反して連作がバラバラにされることなく、常に同じ効果的なセッティングで、理想的な環境で展示され続けるだろうと考えたのだった。

しかし、赤、茶、黒のパレットを使用した作品制作の途上で、レストランの壁にかけるような作品群ではないと判断、契約を破棄する。


レストランの壁にかけてふさわしいくないというのは、ロスコの作品だけがまとめてあるロスコ・ルームに身をおけば理解できる。

彼は作品と鑑賞者の深い精神的つながりを求め、「悲劇、法悦、運命」などをテーマにした。
それらを効果的に展示するためには、ある特定の「場」が必要だった。
彼は一種の聖堂を作り上げようとしたのだった。


ロスコ・ルームは聖堂そのものである。




わたしは宗教建築一般が大好きだ。

というのは、宗教建築は内に閉じているようでいて、常に外の世界に向けて大きく開いているからである。

「外の世界」というのは、もちろんわたしがよく知っているこの世界ではない、別の世のことだ。

人間は自分が使う言語という檻の中に無自覚的に閉じ込められていて、柵の手前までが全世界だと思い込んでいる...
というのは有名哲学者を持ち出さないまでもよく言われることだが、われわれは普通、自分自身に無限の可能性があり、自由に思考でき、感じ、表現し、語り、と思い込んでいる。
しかし実際は「言語」の中で思考したり、感じたりしているだけである。

それでも、その外には何か他のものがあると察知することはできる(もちろんそれが何かを「言う」ことはできない。わたしの言語を使っては)。

そこへの扉が宗教施設には必ず備わっている。

もちろん、ロスコ・ルームにも。


考えてみたらわたしが好きなもの、例えば旅や、クラシック音楽や、バレエやオペラ、本、美術は、すべて「向こう」への「扉」なのである。

時間や、文化的閉域や、空間や、肉体的束縛を離れて...




1970年、ロスコ自身がテイトに作品群を寄贈した。
英国出身の18世紀の芸術家、ターナーへの敬愛を示すとともに、ターナーの部屋の横に自分の部屋を置いてほしいとの希望だった。

2020年9月1日からロスコー・ルームはテイト・モダンからブリテンへ移動して、現在Turner and Rothko展が開かれている。

わたし自身はロスコーを一番好きなアーティストの一人に挙げている。一方、ターナーは昔からいまだにほとんど理解できない。

しかし、偉大なるロスコーがいいと言っているのだから、そこには(その扉の向こうには)きっと何かがあるのだろう。




Mさんに捧ぐ。


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