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イタリア・ルネサンスの3つの...4つの華


ミケランジャロ 聖母子習作 1504年ごろ


ロンドンの王立芸術アカデミーRoyal Academyの展覧会、その名もドラマティックな

『ミケランジェロ・レオナルド・ラファエロ フィレンツェ c1504』Michelangelo, Leonardo, Raphael Florence, c. 1504

ロイヤル・コレクション・トラストとロンドンのナショナル・ギャラリーと提携して開催している展覧会だ。


レオナルド 『アンギアーリの戦い』の習作を不明の芸術家がコピー、
1600年ごろになってルーベンスが加筆、着色したもの
そのおかげで完成することのなかったこの壁画がどんなものだったか知れる...
しかも参与者がすごすぎる


時は15世紀が終わり、16世紀に入ったばかり、盛期ルネサンスのイタリア。

芸術の巨人、ミケランジェロ、レオナルド、ラファエロの3人が共和国フィレンツェで邂逅したタイミングがあった。

3人の巨人、と書いたが、ここは4人目として「フィレンツェ共和国」を入れたいくらいである。


レオナルド 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』俗に言うバーリントン・カートゥーン 1506年ごろ



当時の芸術作品は、芸術家が自分の創造性の発露として好きなように創作したわけではなく、王、貴族、国家、教会など、強力な後援者からの受注生産だった。

共和国フィレンツェには、(当時の尺での)自由があり、莫大な富が集まり、古典文化に対する関心や、芸術を解するパトロンが多数いたため、ルネサンスの巨匠らが交差したのも無べならぬ。

芸術家が職人から尊敬される存在へと変化し、作品に名前を残すことが一般化し定着したのは、このころからだ。
この時期に芸術が単なる手仕事ではなく、個人の創造性と知性の表現として認識されるようになった。

その背景には、社会が、神中心(神の秩序・宗教的価値観)から、人間中心へと変化し、個人の才能や知的創造が尊重されるようになったという大きな変化がある。実際には変化には何百年もかかったろう。


1504年1月25日、フィレンツェの最も著名な芸術家たちが集まり、ミケランジェロがほぼ完成させたダビデ像の設置場所について協議したという。
ダビデ像はただの芸術作品ではなく、共和国の自由と抵抗の精神を具現化する象徴と考えられ、設置場所は圃場に重要だったからだ。

そのメンバーには、ミケランジェロ同様、故郷のフィレンツェに戻ったばかりのレオナルド・ダ・ヴィンチもいたのだ。


ラファエロ ミケランジャロのダヴィデ像のスケッチ 1504年ごろ
その話題のダヴィデ像を、若きラファエロがスケッチ...


彼らはお互いの作品を意識し競わ合わざるをえなかった。
それはちょっとしたメモ書きのようなデッサンやアイデアにも残っている。

完成していたら、価値がつけられない作品になっていただろう、フィレンツェ政府がヴェッキオ宮殿に新しく建設した評議会ホールの壁画のためにレオナルドとミケランジェロに依頼した大壁画(上記のレオナルド『アンギアーリの戦い』とミケランジャロ『カシナの戦い』)...についての研究。


撮影が下手でライトが水玉模様になってます


あるいはハイデルベルク大学図書館が保有しているキケロのEpistulae ad Familiaresの1477年版の余白に、アゴスティーノ・ヴェスプッチによってメモ走り書き。わたしはこの実物を始めた見た。

このメモによって、今まで謎とされていた、レオナルドの『モナリザ』のモデルは、リサ・デル・ジョコンド説が強く支持されるようになった。




また、ブルージュの誇りのひとつ、聖母子教会にある、ミケランジャロによる『聖母子像』のアイデアを書き留めた紙...こちらも初めて見ました!!

このラフなアイデアがあの優雅で天上的な作品に結晶するなんてねえ...!

この作品は、ヴァティカンのピエタと対になる作品である。




文化は「純粋な形」のままでは停滞し、異質なものが交わることで飛躍するのであるな。
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