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本のある、空間から空間へ


Hatchardsは、繁華街Piccadilly通りにある。
数日前、娘の買い物につきあった。



本のある空間が好きだ。

わたしの部屋は壁一面が書棚で、夫の書斎も、娘の部屋もそうだ。
リビングには写真集と大型本専用の書棚を置き、ダイニングにもいつでも手に取れるように写真集がコンソールや寝椅子の上に積み重ねてある。

出かける時は必ず本を持つ。
車の中にも本が置いてある。

ユニークな図書室があるホテルはもちろん、部屋のあちこちに本が設置してあるとわくわくする。


Dauntは、ロンドンの中でも地元民が多く行き交うMaryleboneにある。
この日はパーティがあった。



ついでに言うと、「積読」も好きである。

後日、読むだろう本も積んである一方、わたしの知性の発達の遅々としたあゆみを鑑みると、おそらく死ぬまでには読めないような本もたくさん含まれている。
そういう本は、人類の叡智、過去や知らない土地、あの世や、創造主や、宇宙へと開ける「扉」である。

「わたしが知らないとすらも知らないことがこの世には無限に存在する!」と、積んである本を見るたびに思い知らせてくる。そういう本が家の中にあるのは大切だと思う。


家の中のつつましい本の集合体は序の口、真骨頂としての図書館も、本屋さんも大好きだ。
もちろん、図書館や本屋さんにはこことは違う世界へとつながる「扉」が多いからである。

図書館や本屋さんにいると、「あれも読んでない、これも読んでない」と、自分の人生の有限性と、知識の有限性を感じて焦るばかりでなく、えもいえぬ幸せを感じる。

「創造主のふところに包まれる」というような神秘体験とはこういうことなのか、と思う。

ほら、例えば仏像がずらっと並んでいる静かなお堂を歩く時、仏像はあちらからは何も言ってはくれないが、優しく見守ってくれているような気がし、こちらから働きかけるとヒントをくれたりする、あんな感じだ。

仏像や神像も、こことは違う世界につながる「扉」である、といえば、多くの方は賛同してくれるのではないだろうか。


最高に美しい写真集。
図書館を飾るのは、そこが神の叡智を垣間見られる場所だからか。
あるいは「知」によって神の世界を序列化しようという欲望からだろうか。



神社仏閣、教会が、ボルヘスの図書館やエーコの『薔薇の名前』に出てくる図書館、世界三大図書館(エフェソス、ペルガモン、アレキサンドリア)などが、神秘性や永遠性をまとっているのは当然なのだ。


最近では街の本屋は少なくなり、あったとしても、すぐ忘れられてしまうような流行りの本だけを販売するだけだったりする。

ブルージュでは、知的好奇心にあふれた品揃えで有名な馴染みの本屋さん夫婦が今年隠居した。
娘が自分で本を選ぶようになった頃から信望してかわいがってくれ、英国に引っ越しが決まった時は「もしベルギーで保護者が必要であれば、私にその仕事を任せてほしい」とまで言ってくれた品のある婦人だ。


先日に訪れたロンドンにある「老舗」のひとつ、ピカデリー通りのHatchards(一枚目の写真)は、街中にあって品揃えも店構えも素敵(隣の大型書店チェーンウォーターストーンに買収されてしまったが、一見するところまだ個性的な個人商店の面構えをしている)。

マリルボーンのDaunt (二枚目の写真)は、書架の分類の仕方がユニークでいい。
分類が国別地域別になっており、例えば「ロシア」のコーナーに行くと、旅行ガイドブックやロシア料理などの実用本と並んで、ロシア正教会の美しい写真集や、ドストエフスキーやチェーホフ、ザミャーチン、シーシキンの本が並んでいるのである。

ロンドンの繁華街にいながら、一気にロシア上空に飛び、正教会の、ミルラ薫る堂内に降り立ち、総主教の目を借りて蝋燭の火やイコンを見つめ、あるいは19世紀の社交界の女や、レーニンに心酔したボルシェビキの目を借りて世界を見る...ような気になるのである。


次にオーストリアに行ったら、メルクの修道院にあるという図書館が見たい!!
『薔薇の名前』の主人公の一人は、その著名な図書館へのオマージュとして、メルクのアドソと名付けられたのである。
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