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「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」





レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》、15世紀末の作品。
彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれた。
上部ルネットもレオナルドの筆。

こちらを初めて見たのはもう30年以上前のことだ。
当時は予約も必要なく、行列もなく、居座り放題で、修復途中につき灰色の足場が組んであった。

今は25人ごとのグループで入場し、1組につき15分しかなく、あっという間に「セニョーリ、退出してください」と追い出された。

レオナルドがこの絵で試みたテンペラではない手法、登場人物の動作の物語性、制作された歴史的背景と破壊された政治的背景、写し取ろうとした究極の瞬間と永遠性、そして自分の記憶に残る《最後の晩餐》よりも現物はこんなに大きかった(420 x 910cm )のだ、などとぼんやりしていたら15分なんかすぐに過ぎ、細部を見ている暇もなかった。


こちらのガイドさんと、アンブロジアーナ絵画館(レオナルドの《アトランティコ手稿》他、《音楽家の肖像》などを収蔵)のガイドさんが同じことを言っていて、あらためてなるほどと思ったことがある。

レオナルドは常に「瞬間」を捉えた

というのだ。

つまり、《最後の晩餐》は、イエスが弟子たちに「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と言った瞬間の弟子たちの様子を捉えているのであり、《白貂を抱く貴婦人》は声をかけられて振り向いた瞬間の女性の顔を捉えている、と。


うむ、そう考えたら、特別な瞬間を、何時間もそこに居座って何度も再生して楽しむというのはちょっと違うのかも...
いや、それを可能にするのが絵画なのか...


ここに、芸術とは何か、人間とは何か、という秘密(秘密じゃないかな)があるような気がする。
現実には2000年以上前にあった(かもしれない)出来事を永遠にとどめておくことはできない。それがいくら重要な事件であったとしても。同じように、美女がこちらを振り向いた、得も言われぬ美しい瞬間をとどめておくことはできない。

現実にはとどめておくことができない、究極の瞬間をしかも究極の美のかたちに留めようとする努力。それが芸術??


写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンは「写真は短剣のひと刺し、絵画は瞑想だ」と言ったが、どうなのかな...


「宇宙や生命の「はかりがたき」本質を捉えようと試みた画家が、人生や運命の「はかなき」実相に思い至」(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』)り、それでもその瞬間をとどめようと全霊をつくした結果、永遠に再生され続ける「最後の」晩餐の瞬間。

ここはとても不思議な空間なのである。
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