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Brugge Style
牛乳を注ぐ女
オランダ、アムステルダム国立美術館で一番有名な絵画はといえば、レンブラントの『夜警』とフェルメールの『牛乳を注ぐ女』ではなかろうか。
『夜警』は、この大きな美術館の目玉としての展示位置も、サイズも、分かりやすい題材市民隊(火縄銃手組合による市民自警団が出動する瞬間)も、軍隊の動きの革新的な描き方も、レンブラントの知名度も、すべてとても華やかである。相応に常に大勢の人が集まっている。
『牛乳を注ぐ女』は、サイズも小さく、フェルメールの他の2点(『小路』『青衣の女』)と並んで、脇に展示されている。
フェルメールの人生にレンブラント並みの辛酸がなかったとは言わないが、どちらかというと堅実で、レンブラントのような破滅型ではなかったようである。彼については分かっていないことも少なくない。そして寡作(失われたものを含めて50から60作。レンブラントは300とも500とも)。
フェルメール・ブルー。ひどく懐かしい気がする。
また、フェルメールの絵画は、意図や意味、テーマがよく分かっていない、と言及されることも多い。特に『牛乳を注ぐ女』に関しては。
現にオーディオガイドも困惑したようにそう言ったし、たまたまチェックした英語版のアート記事にもそう書いてあった。
「意味が分からない」と言われようとも、この傑作の魅力は一ミリたりとも減らない。
わたしが『牛乳を注ぐ女』を眺めていた1時間ほどの間だけでも、多くの人が入れ替わり立ち替わりやってきて、ほとんど必ず「これ、有名だよね」と写真を撮り、記念撮影し、去っていった。
世界を意味で埋め尽くそうとするのは西欧の習慣、クセである。
そういえば、フェルメールが特に日本で人気なのは、オランダの17世紀に当たり前だった宗教的・文化的なバックグラウンドや、絵画に込められた寓意に対する知識がなくても味わえるからだと聞いたことがある。それはそうなのかもしれない。
わたしは日本人は(日本語を解する人はと言うべきか)、俳句のような状況描写を、ただそれをそれとして楽しめる人たちだと思っている。
だから、例えば、静かに牛乳を器に注ぐだけの女の姿や、青い服を着て手紙を読むだけの女の姿を、古池に飛び込むだけのカエルを、しみじみ楽しめるのだと思う。「しほり」だ。
17世紀前後のオランダ市民社会では、「女中」や「ミルク」が性愛を連想させる存在のひとつであり、『牛乳を注ぐ女』もそういった作品のひとつであるという学説もある。
足温器やデルフト・タイルに描かれたキューピッド...このすっきりした画面の中にも数多くの性的な仄めかしや、象徴があるというのである。
うん、人間の欲望というのは完全に壊れているのだからして。
しかし、わたしは、この絵画にテーマがあるとすれば、それは「祈り」であると思う。
予定説的なエトス(「神によって救われている人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という論理。すなわち信仰と労働に脇目もふらず励む、世俗内禁欲)的なものを見ているのかもしれない。労働は美徳なのである。
彼女の腕はキアロスクーロ表現だけではなく、日々の野外の労働で日に焼けているように見える(これに言及した批評は読んだことがない)。
17世紀当時の絵画は、現実の再現描写こそが当たり前であったが、フェルメールは寓意的な意味を持つ小道具や教訓を排除し、女性の感情を両義的にすることによって、独特の世界を再現する。
キリスト教では左から差す光線は聖なる光である(左側の窓ガラスが割れている)...との引き合いを出さないまでも、この絵のバランス(左側が俗で、右側が聖)、白壁の清らかな美しさ。
意味を希薄にした画面には、聖性の入れもののような効果がある。イコンのような。意味で満たすことを拒否する記号。
わたしが祭壇に一枚だけ絵をかけるなら、ベリーニ(大好きな聖母像がある)よりも、この絵を選ぶだろう。
現に、この絵を前にすると瞑想中のような脳波になり、身体が動かなくなるのである。
ミュージアム・ショップのネインチェ(ミッフィー)とプレイモビールのお人形が『牛乳を注ぐ女』に扮しているではないか。
これは作品の意図を見誤らせるのでは...と一瞬思ったのだが、もともと17世紀オランダでは、市民への「教訓」と「おかしみ」を含んだ絵画が大流行したので、見誤らせているどころか、きっちり意図を踏襲しているのだ! と。
夫がプレイモビールの方を買ってくれると言ったものの、熟考の上、辞退した(笑)。
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