goo

ペン




先日、今年買ったもののうち、気に入っておそらく今後も使い続けるだろうもののリストを書いたら、結構反応して下さった方が多かった。


それで今日は日々の生活になくてはならないものの中からペンを...


わたしの書き癖、仕上がりの好みにぴったりのペン。かれこれ10年、いやもっと長く使い続けている。
アルファベットで書く時は、20才の時に買ってもらったモンブランの万年筆を使うが(この頃からすでに渋好みだったのである。そういえばキラキラペンとか使ったことがないな)、日本語を書く時は絶対にこのペン!

ユニボールのブルーブラック。130円。
大ファン。見た目がこんなでも許す。男性もペンも、見た目より書き味、なのである。


これが生産中止になったら...と想像するだけで焦る。
改良などもしてくれないほうが有り難いなあ。


これでなくてはうまく書けるような気がしない気に入りのペンってありますよね?ね?弘法大師じゃないんだからー。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

お妃様に「学ぶ」




単に1人の子の親であるというだけで、教育や学びについてここであれこれ語っているのには、われながら恥ずかしくなることがある。

荷物のすき間で潰れている衝撃吸収剤のような頭ではあるが、できるだけ心を込めて考えようとは思っている(「心を込めて頭で考える」という表現はまた面妖な)。
また、公平に考えようと努力はしているものの、わたしは絶望的にものを知らないし、考え方には常にバイヤスがかかりまくり、別の立場、別の場所、別の時間、別のバイヤスの元ではブッブー不正解!となるだろうことも承知している。

それでもわたしは考える。考えたら言ってみたくなる。なぜだろう。
案山子にも小さな脳みそがあり、ブリキのロボットにも小さなハートはあるからか?



まあそんなことは置いておいて。しつこいけど。しつこさがわたしの文章の特徴であるからして。


ある遠い国のお妃様となられた方が、ご成婚前に宮中祭祀をお勉強なさっている時、「これをすることにどういう意味があるのですか(意味はない)。」とおっしゃったそうだ。もうかれこれ15年くらい前のことである。
このお妃様のご発言は「帰国子女だけに合理的」とマスコミによって意味不明な持ち上げ方をされ、肯定的に報道されていた(はず)。


なるほど宮中祭祀は、起源が説明できないほど古い有職、故事、煩雑な所作や手順、見たこともないお道具や聞いたこともない用語など、古式ゆかしきルールで成り立っているのであろう。

庶民がとり行う祭祀/行事一般においてでさえ、普段は決して使わない言葉や作法などの知識が必要だ。そういう場では意味を問う前に、とりあえず世慣れていそうなおばちゃんの見よう見まねをして切り抜けねばならない(そして何十年後かのある日、自分がその「おばちゃん」になっていることに気づくのだ...)。
皇室においてはさらに何十倍も厳格で複雑な要求があるのだろうことは簡単に想像できる。

それが「現代的」な感覚では「メンドウクサイだけで意味ないじゃない?」となるのだろうか。

元旦の早朝に朝服で東西南北を拝んだら、ホントに豊作と無病息災が叶うと思ってるの?みたいな。
因数分解を習って何の役に立つのですか?と聞く中学生並み。


しかし、自分が現在持てる知識で「意味が理解ができる」「得になりそう/ならなさそう」と判断を下せることしかやらない、と言う人は、自分自身とその知性にストッパー(呪縛か)をかけてしまい、学ぶことができない、と思うのである。

反対に、現在の自分の知識を持ってしては全然「意味は理解できない」けれども、とりあえずやってみる、覚えてみる、という人だけが、茫々たる知の海へと飛び込むことができると思うのである。そしていずれ「あの意味」が分かるところへたどり着くのだろう。たぶん死に際とかに(笑)。


そして残念なことにと言うか、お気の毒にと言うべきか、このお妃様のご病気は「意味が理解できることしかやりません」というお考えに原因があるのではないか、とわたしは下衆の勘ぐりをしているわけです。

つまり、この方はご自分をこの言葉でこの場所に釘付けにしてしまって、どうにも動くことができないのではないか、と。
「私自身が優れた意味があると判断したことをしたい」と思いつめるあまり、動けなくなっているのではないか、と。
終わりのない「自分探し」。
うむ、精神病の第一歩ですな。


自分が価値があるとすらも知らないことが闇の海のように広がっていると身体で感じることこそが学びの一歩だと思うのだが。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

サンタ切手








今年の切手は結構かわいいほうだ。
でも国内用と国外用の2種類だけ。もっといろいろなデザインやサイズがあればいいのに。

来年は自分のオリジナル切手をオーダーして見ようか知らん...シックなやつを。
わたしのように毎年ドタバタでカードを用意するようなタイプには向いていないのかもしれないけれど、一度は作ってみたい。

郵便局に置いてあるあらゆる紙製品に憧れを抱いている人間にとっては、切手をデザインすることは、そうだな、例えばカラオケで歌手気分を味わっている人の快感と同種の快感を味わえることになるかもしれない(わたしはカラオケに行ったことがない)。
わたし、喩えが強烈にヘタクソですね...


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

bateel




それでドバイ土産に頼んでおいたbateelのチョコレート。

中身がデイツのバリエーション。これが美味いんですな。
ベルギーのチョコレートよりも好き。



甘い甘い干しデイツを食べてから、お猪口より一回り大きいカップで薄いアラビアコーヒー飲む、というマナーは、お薄と干菓子のような感じで、たぶん日本人は好きな味覚だろう。



今年、ドバイに二度行った。
ホテルロビーではデイツとアラビアコーヒーのサービスがあり、民族衣装姿(わたしはきっと民族衣装フェチだ)のほれぼれするくらい男っぷりのいい給仕が飛んで来てサーブしてくれた。
その土地で、その雰囲気で、食べたら抜群に美味く感じる種類の食べ物ってありますよね。飯ごう炊さんとか。夜店のジャンクフードとか。
デイツはわたしにとってそういう種類のものである。

だから極寒のベルギーで、男前の給仕さんもいないのにデイツだけを食べてもわたしにはその良さがあまり分からない。けれど、このチョコレートとデイツの組み合わせは文句がない。どんな飲み物にも合う。またチョコレートも主張が強そうなのに結構何にでも合うんですね。


チョコレートってすごいですね。
中東の外交手本をチョコレートに求めるってのはどうでしょう。チョコレートで外交キャンペーン(笑)。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

クリスマスまで2週間








夫の首長国出張が延び、金曜日の夕方ブラッセル着、翌土曜日は南米へ出発、というスケジュールになってしまった。

空港から30歩だかの(<HPにそう記載あり)ホテルへ宿泊するしかない。

それでわたしも金曜の夜からそのホテルへ。お土産を受け取りに。あっ、彼に会いに。


夕方、鍵の携帯を忘れて自分自身を家から閉め出す、車のエンジンがかからない、歯茎が腫れるなどのトラブル続きだったが、無事到着するにはした。だから気が進まへんかってんよ...と車の中でつぶやく。行き先が気持ちが華やぐようなホテルではないからだ。


ブラッセルにはEUなどの国際機関もあり、中心地として契機はあるわけなのに、どうしてもっとこう都会化しないのだろう。ブラッセルの洗練をストップさせているのはいったい何なのだろう。これはじっくり考えてみたいトピックだ。

せめてそこへ行くのがうきうきするようなホテルがあればいいのにと、先日、近所のホテルでマネージャーの1人(彼は常に風呂上がりのような紅顔の青年である)に訴えたら、そのホテルチェーンがブラッセルにベルギー二件目を検討しているらしい。

そのホテルがブラッセルという「土地」にどのように影響されるか非常に興味があるなあ。
ブラッセルはミイラ取りをミイラにしてしまう力を帯びている。あるいは刑場跡や古戦場には何を建てても寂れると言うがそんな感じ。ブラッセルの古地図を調べてみたいものだ。

一方、住む土地としてのブラッセルは大変いいところだと思う、と書き添えておこう。



昼過ぎブルージュに戻ると、クリスマスショッピングの人出がものすごかった。そぞろ歩く気分にもならないほどの混雑だ。
どの地下パーキングも満車。どの喫茶店も満席。どの店のレジにも列。

うむ、ベルギーの人々が華美柔弱を嫌っているわけではないらしい...


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »